窓を叩き付けるようなばたばたという音に、さすがのヒカルもちょっと顔を上げた。ますます強くなる風が雨粒を交えて低いうなり声を上げ、古くなった部室の窓にぶつかっていく。窓の外を見つめるヒカルの漆黒の瞳が、蛍光灯の無機質な白い光を受けて輝いている。窓の外のどこか遠くの方で、雷が低く轟くのが聞こえた。

「雷さんだー…ぷっ」
「…それ、すごいね」
「うぃ」

ヒカルは手にしていた古い賞状の束を棚の奥に押し込むと、ゆっくりと立ち上がって首をちょっと捻り、天井を見上げる。そして暫く考えるようにじっと黙りこんだあと、不意に「屋根が飛ぶんじゃないかしら…やぁねぇ。…ぷっ」と呟いて、小さく肩を振わせて笑った(わたしが「ここ屋根とかないよ、1階だし」と突っ込むと、しらけた顔でじっとわたしを見つめ返した)。外は激しい嵐で、グラウンドの緑は鞭のようにしなり、荒ぶる風に今にも引きちぎられようとしている。突然ばらっと大きな音を立てて窓を叩いた雨粒に、わたしは目を丸くして思わずちょっと肩を竦めた。ヒカルはしばらく黙ったままベンチのわたしを見つめていたが、やがてゆっくりと歩いてわたしの隣に腰掛けると、そのまま壁にもたれて、小さく溜息を吐いた。
 
 

27.5cm、くたびれた感じのするヒカルの上履きの底が、床と擦れて小さく音を立てる。その踵を踏む素足の踵が、わたしの上履きの先のゴムの部分にこつんとぶつかった。ヒカルの制服の膝と私の素肌の膝が、ほんの少しだけ触れ合っている。身長がこれだけ違えば当然だといえば当然だけれども、こうして並んで座ると脚の長さの違いが明らかで、わたしはなんだか恥ずかしくなって、できるだけ自然な動作で脚を投げ出す。ヒカルは気付く様子もなく、荒れ狂う窓の外の景色をじっと見つめている。どこか遠くで、再び雷鳴が響いた。

「…相変わらずのこの天気…もう5時なのに、大惨事だな…ぷっ」
「うん…ていうか夕方と思えないよね、この暗さ」
「夕方…」

ヒカルは呟くと、考え込むように俯いた。響く激しい雨音に、わたしの小さな溜息は掻き消される。再びばらっと大きな音がして、部室の窓ががたっと音を立てて揺れた。ヒカルはしばらくの間一人うんうんと唸っていたがやがて諦めたように顔を上げると、そのまま真直ぐな眼差しでわたしを見つめる。女のわたしよりもずっと長くて濃い睫毛が、ゆっくりと上下する。ヒカルはわたしを見つめたまま、その唇を開いた。

「飽きてきたな。…いつ帰る?」
「うーん…雨、止みそうもないしね。どうしよっか」

わたしの発言に、ヒカルは「そうだな…」と呟いて、ちょっと視線を落とす。しかしすぐに何か思い付いたようにそのすっと走った眉をぴくりと持ち上げると、そのまますっとわたしを見上げて、言った。

「…泊まる?」
「え…」

ヒカルは何を口にする時も真顔だから、時々本気なんだか冗談なんだかわからなくなる。わたしは一瞬思わず無言でヒカルを見つめ返してしまったが、その目の奥にきらっと輝く冗談っぽい光を見て(…やられた!)と思わず頬を染めると、「そ、それはないけど」と慌てて視線を外す。ヒカルはそれで愉快気に眉を持ち上げると、その視線から逃れようとするわたしの顔を覗き込んで、楽しそうに目を細めて続けた。

「俺と泊まるのは困るの?…ぷっ」
「えっ…ていうか、ヒカルと泊まるとかそういう問題じゃなくて……、そもそもここ学校だし、部室だし、」
「ほう。…突然部室に泊まろうとは、ぶしつけなお願いでしたか…ぷっ」

自信ありげにそう言って小さく吹き出した彼を半ば呆れた気持ちで見つめながら、わたしは「調子良さそうだね」と肩を竦めて少しだけ笑った。ちょっとした平和ムードの部室の中とは裏腹に、窓の外の嵐はその激しさを増している。がたがたと音を立てる窓に、少し視線を持ち上げてちょっと窓の外を見つめたその瞬間、不意に世界がぱっと白く光ったかと思うと、追うようにけたたましい轟音が辺りに響き渡って、わたしは思わず肩を竦める。ヒカルも驚いたようにちょっと眉を持ち上げて、呟くように言った。

「…凄いな」
「うん…凄いね」
「そのうち停電したりしてな。停電したら、ていでんだー……、いまいち」
「え、今のは結構…」

わたしの言葉に、ヒカルはちょっと不満気な表情でわたしを見つめて「駄目だ。はわかってない」と左右に首を振って溜息を吐く。そのあまりにも可愛くない反応に、せっかく褒めてやったのにとわたしがちょっと頬を膨らませて反論しようとした瞬間、突然耳をつんざく様な音が響いたかと思うと、窓の外、部室の中までもがピカッと真っ白に光った。その光に驚いて、わたしが窓の方へ視線を持ち上げた瞬間、不意に天井の蛍光灯がぷつんと音を立てたかと思うと、突然部室の中にしんと暗闇が落ちる。わたしは突然の事態に「わあ!!」と悲鳴を上げて隣のヒカルの腕に思わず抱きついたが、どうやらヒカルの方もわたしの手を握ろうとしていたらしく、ヒカルの硬いてのひらが探るようにわたしの膝の辺りに触れるのがわかった。

。大丈夫」
「ご、ごめん…びっくりしちゃって」
「いいけど…」

ヒカルはわたしの手のひらを探り当ててそっと力を込めて握ると、ちょっと身を乗り出して窓の外を見つめる。どうやら停電したのは部室棟だけらしい、職員室のカーテンの向こう側には白い蛍光灯の光が透けて見えた。ヒカルは「…なるほど」と呟くと、腕にしがみつくわたしをそっと振り返って、そのままそっとわたしの頭をぽんぽんと撫でる。普段はぼーっとしていてどこか頼りないくせに、こういう時だけ妙に男らしくて、ちょっと悔しい気もするけど、でもこの優しいてのひらがわたしの心を落ち着かせてくれたのは確かだ。わたしは暗闇の中に浮かぶヒカルのその引き締まった輪郭に思わず見とれていたが、やがてちょっと照れくさくなって、そっと視線を落とす。暗闇のおかげで、わたしの頬が赤くなっていることには気付かれずに済んだ。

「…ま、そのうち用務員さんが直してくれるだろ」
「うん…で、でも…ちょっと、やだよね…ここ、ボロだし…暗いと、怖いよね」
「む…明かりがらいと、怖いのか?…ぷっ」

いつもと変わらないヒカルの駄洒落に、なんだか気が抜けたような、安心したような気分になって、わたしは思わず脱力して笑った(それでもヒカルは満足した様子だった)。ヒカルはわたしの頭に手を置いたまましばらく暗闇の中に視線を彷徨わせていたが、やがて「確かそこらへんに…」と呟くと、手探りで机の上をあさって、小さな紙箱と、実験室にあるような燃えくず入れを手繰り寄せる。そして「マッチがありまっちた……ぷっ」と呟くと、そっと中から1本のマッチ棒を取り出して、それをしゅっと箱に擦った。小さな音がして、暗闇の中に小さな赤い炎が灯る。わたしはその暖かい赤色に、「わぁ、すごい」と声を上げて、そっと目を細めた。

「来た」

先程まで蛍光灯の下で見つめていたヒカルの顔が、今度は赤い小さな炎にゆらゆらと幻想的に映し出される。ヒカルはしばらくじっと無表情でその炎を見下ろしていたが、やがてちょっと顔を上げると、いつもの淡々とした口調で言った。

「…こうしてると、お誕生日会のケーキ喰う時みたいだな」
「あ、確かに…」

「ハッピーバースデイトゥーユー」陽気なメロディとは裏腹な無表情で、ヒカルは有名なあの歌をぼそぼそと口ずさむ。わたしはそのメロディと彼の声のアンバランスさにちょっと吹き出すと、その歌声にそっと自分の歌声を重ねた。赤い小さな炎はゆらゆらと揺れる。

「ハッピーバースデイディア…」
「俺」
「じゃあ…ハッピーバースデイディアヒカル」
「うぃ」
「ハッピーバースデイトゥーユ…あっ」

何を思ったか、ヒカルは歌い終えると同時に、マッチの先の炎をふうと吹き消した。不意に落ちた暗闇と一瞬の間のあと、わたしは咄嗟に隣のヒカルの背中をばしっと叩いて「ほんとに消しちゃだめじゃん!」と声をあげる。ヒカルはうっと低く呻いて背中を擦ると「だってもう短かったし…」と不満気に眉根をよせて、燃えくず入れの中に焦げたマッチを落とす。そして新しいマッチを取り出すと、再び箱に軽く擦った。また小さく音がして、暗闇の中に赤い炎がゆらゆらと揺れた。

「よし、OK」
「うん!…でも、すごいよね…こんな小さな火でもちゃんとあったかい」
「ふぁい…あ。ぷっ」
「……うん」

何となく突っ込む気も失せて、わたしはそっと炎に視線を向けた。ゆらゆらと揺れるその温かい赤に、部室の古い備品の影がなんだか幻想的に映し出されている。わたしはしばらく黙ってその景色を見つめていたが、不意に隣からの視線を感じて、思わず隣を振り返る。すると、マッチを片手に持ったまま、恐ろしいほどの真顔でじっとわたしを見つめているヒカルの姿があった。しばらくの間お互い黙って見つめあっていたが、やがてヒカルは僅かに目を細めて、少し掠れた声で言った。

「…なんか、こうして見ると…って結構綺麗なんだな」
「えっ…ヒカル?ちょっと、熱でもあるんじゃ…」
「…と思ったけど、マッチの明かりのせいでそう見えただけだな。悪い、今のは俺のまっちがいだ…ぷっ」
「………」

うんざりするようなその駄洒落にあからさまに幻滅した表情を浮かべたわたしを見て、さすがのヒカルもちょっと慌てた様な表情で「悪い、冗談」とわたしの顔を覗き込む。わたしは「もーいいよ、慣れてるし」一つ肩を落として溜息を吐いたが、不意に顔を上げた瞬間、思ったよりもずっと近くにヒカルの顔があったので、思わずびくっと肩を跳ね上げて目を見開いた。ヒカルはわたしの目をじっと覗き込んだまま、言った。

「…今の、本気だ。、ふつーに綺麗だし」
「…もっ…別にいいってば。それより、近いよ」

ヒカルの顔がずいっとまた近くに寄ってくるのを感じて、わたしは反射的にぎゅっと目を瞑る。ヒカルはそんな顔をしばらくじっと見つめていたが、やがて「ごめん。怒んないで」と呟くと、そっと身をかがめてわたしの頬をそっと撫でた。予想外のその行動に、わたしは恐る恐る瞼を持ち上げて、すぐ間近にあるだろうヒカルの顔をそっと見上げる。すると、ヒカルは長い睫毛をゆっくりと瞬かせて、真摯な表情でじっとわたしの目を覗き込んでいた。ヒカルは言った。

「…
「な、なに」
「…怒ってる?」
「べ、別に怒ってはいないけど…」
「本当に?」
「うん」
「…ならいーけど」

わたしの言葉に安心したように目を細めると、ヒカルは背後を振り返って、短くなったマッチを燃えくず入れの中に落とす。じゅっと小さな音が響いて、すぐに部屋に暗闇が落ちた。わたしは壁にもたれたままヒカルが新しいマッチをつけるのを待っていたが、彼はマッチの箱には触れず、そのまま再びわたしに真直ぐに向き直る。彼の突然のその行動に驚いて目を見開いたわたしに、ヒカルはぐっとその顔を近付けると、すぐ睫毛の先が触れ合うような距離で、囁くように言った。

「…じゃあ、泊まるか」
「は…」

…こいつもしかしたら、本気なのかもしれない。真っ暗闇の中、手探りでその胸を押し返して「と、泊まらないってば…」と返すと、ヒカルはちょっとショックを受けたように黙り込んだ。窓をまたばらっと雨粒が乱暴に叩いていく。落ちた蛍光灯の光は、まだしばらく戻りそうもない。
 
 
 
 
 


 
嵐の夕方に/20041021