台所から響いた笑い声に、ヒカルはちょっと眉を持ち上げて手を止めた。今日は午前練習のあとオジイの家に集まって皆で昼食を作ることになっていたが、あの台所では全員で入ると狭くて身動きが取れなくなってしまう、「お前ら何か邪魔そうだから」と野菜と包丁を渡されて庭に追い出されたヒカルとわたしは、縁側に並んで腰掛けて、黙々と野菜の皮を剥いていた。ヒカルはサンダルの先で足元に溜まった人参の皮をちょっとどけると、小さく息を吐いて「盛り上がってるな、向こう」と呟く。左手の中をずるずると滑るジャガイモにちょっと苦戦しながら「そうだね」と返すと、ヒカルは剥き終わったらしい人参をざるの中に積み上げて、言った。

「よっし。残り一個、これでラストだワン…プッ」
「うそ、わたしまだあと2個ある」
「ぷっ。ダサい」

「ダサい真似しないでくださいよ…ぷぷっ」わざわざ付け足してそう言うと、ヒカルは小さく吹き出して笑った。わたしはそんなヒカルを横目で睨んでいたが、やがて「…むかつく!」と一言だけ言うと、ヒカルに背を向けて再びジャガイモの皮を剥く。「この勝負、あったな」勝ち誇った様子で呟くと、ヒカルは再び人参の皮を剥き始めた。(く…!)あれこれ言い返したい気持ちは山々だったけど、言っても悔しくなるだけだろうから黙っておくことにした。嬉しそうなヒカルの唇のはしっこがむかつく。

台所の方から聞こえてくる皆の声を少し遠くに感じながら、わたしたちはじっと黙って野菜の皮を剥いていく。視界の隅に、ヒカルの擦り切れたジーンズの膝と、その手元から落ちる鮮やかなオレンジ色の皮が時々ちらちらと見えた。わたし達はしばらく黙ってお互いの作業に専念していたが、不意にヒカルのほうがぽつりと呟くように言った。


「うん」
「いま好きな奴いる?」
「え…どうしたの、急に」

わたしは思わず手を止めて、隣のヒカルをちょっと見上げる。ヒカルは手の中の人参に視線を落としたまま、「別に」と短く返した。(…相変わらず、訳わかんない奴…)わたしはしばらく手を止めてヒカルの横顔をじっと見つめていたが、やがて再び視線をジャガイモに戻すと、その皮をゆっくりと剥きながら尋ね返した。

「ヒカルは」
「いるよ」
「え」

いつもの無表情で即答したヒカルに思わず一瞬言葉に詰まってしまったが、わたしはごくっと唾を呑み込んだあと、一言だけ「なんかちょっと意外…」と返した。足元に溜まった人参の皮をサンダルの先でどけながら、ヒカルはすぐに「は」と短く続ける。わたしはしばらくヒカルの足元に落ちたオレンジ色の皮をじっと見つめていたが、やがて「うーん…」と呟くとちょっと首を捻って、考えた。実はわたしには最近、少し…いや、ほんの少しだけれども、なんだか気になる男の子がいるのだけれども、けれどもまだそんなこと女の子の友達にも話してないし、こんな状況でヒカルごときに打ち明けていいのかなぁなんてちょっと迷ったけど、考えていくうち、逆に「どうせヒカルだしいいかなぁ…」なんて呑気な結論に到達して、わたしはとりあえず言ってみることにした。

「うーん…ちょっと気になる人ならいる、かも」
「誰」
「え、…それは言わないけど」

ヒカルは視線を持ち上げると、わたしの目を見つめて「何で」と返す。真直ぐに見つめられるとちょっと怖い感じのするその顔に、わたしは思わず動揺して、慌ててちょっと視線を逸らして「なんでって…やだもん」となるだけの早口で返した。目を逸らしていても、ヒカルの視線がじっとわたしの睫毛の先あたりに向けられているのがわかる。じっと体を強ばらせて息を詰めるわたしに、ヒカルは容赦なく続けた。

「言えって」
「やだよ」
「気になる」
「やだ」
「言え!」
「やだってば」

ヒカルはちょっと眉を寄せて「む…」とわたしを睨んだあと、納得いかない様子で手元の人参に視線を落とした。照りつける日差しを受けて、ヒカルの頬に長い睫毛の影が落ちている。「別にいいじゃん」できるだけ早口で言うと、わたしはじゃがいもに再び包丁を滑らせた。手元から落ちた皮がやけに分厚かったのはもしかしたら動揺していたせいかもしれない。ヒカルは手元の人参にじっと視線を落としたまま、ふたたび口を開いた。

「じゃあ、そいつと上手くいってるの」
「別に…ヒカルの方こそ」
「…微妙。でも正直、今はあんま自信ない。天根の自信あんまねー…駄目だ全然サエてない」
「はは、いつもと大差ないじゃん」

わたしはちょっと笑って、脱げかけたサンダルのつまさきをつっかけなおした。足元にたまったジャガイモの皮が、お日様の光を反射してきらっと光る。ヒカルはしばらく人参を掴んだままじっと黙っていたが、不意に小さく溜息をついて肩を落とした。ちょっと気になって、わたしは顔を上げて隣の様子を覗き込む。すると、ヒカルは泣くのを我慢する子供みたいな表情で、じっと黙って地面を睨み付けていた。そのなんとも幼い仕草に思わずぷっと吹き出すと、ヒカルがほんとにちょっと怒ったような顔で睨んできたので、わたしは慌てて笑いを呑み込んで「で、でもさ」と言葉を続けた。

「ヒカル普通にかっこいいし、良いトコいっぱいあるし、きっとうまくいくよ、大丈夫だよ」
「何でそういうこと言うの」
「だってそう思うもん、ほんとに」
「じゃあどうしたら俺のこと好きになってくれるの」
「え?ていうかヒカルなんでそんな泣きそうなの」

わたしを見るヒカルの目がだんだん小さい頃の泣き虫だったヒカルの目に戻っていくのを見ていたらまた堪え切れなくなって、わたしは思わずふたたび吹き出してしまった。それでヒカルは一瞬傷付いたような顔でじっとわたしを見つめたあと、眉間に思いきり皺をよせて「もういい」と乱暴な声で言ったっきり、フイとそっぽを向いてしまった。(え…)まさかヒカルがこの程度のことで怒るなんて思ってもみなくて、わたしはそっぽを向いた彼の背中に向かって慌てて「ごめんヒカル、怒んないで」と謝る。けれども「別に怒ってない」返ってきたヒカルの声は本当に怒っていたので、わたしはおもわず何も言えなくなってしまった。台所から聞こえてくる剣ちゃん達の賑やかな笑い声が、なんだか遠い世界のものに思える。ヒカルの足元で、人参の鮮やかなオレンジがお日様の光を跳ね返してきらっと光った。

 

 

 


不器用なオレンジ/20040303