(あれ…)

サンダルの靴底がずるりと擦れる音、足首が変に曲がる不吉な感触。一瞬の気が抜けるような感覚のあと、わたしは斜め前でアサリを漁って(…)いたヒカルを、背中から覆い被さるような形で思いきり押し倒した。「ぎゃ!」「どわっ!」上擦ったヒカルの悲鳴ごと、わたしたちは派手に水飛沫を上げて顔面から浅瀬にダイブする。ばしゃんと飛び散った大粒の飛沫に、隣でアサリを漁っていたバネさんも「げっ!」と声を上げて、慌ててその場から飛び退いた。

「ぶっ…げほ」
「おいおいお前ら、何やってんだよ」
「ご、ごめん、なんか急によろけちゃって…」
「…おえっぷ」

わたしの身体の下で、ヒカルは「鼻に水入った」と呟きながら、鼻の下を武骨な指で拭ってのっそりと身体を起こした。その制服のワイシャツは海水にぐっしょりと濡れて、彼の無駄なく筋肉のついた背中をうっすらと透かせて見せる。「あ…ご、ごめん、ヒカル」慌てて身体を起こしてヒカルの背中に向かって頭を下げると、ヒカルはちょっとわたしを振り返って「うぃ」と小さく顎を引いて、身体にへばりついたワイシャツに視線を落として「海水で透ける…これがほんとのシースルー…ぷっ」と小さく吹き出した(コンマ1秒でバネさんの飛び蹴りに撃沈した)。「ごめんねヒカル、ほんとごめんね」何度も謝りながら、わたしは身体の脇に手をついてゆっくりと立ち上がる。しかしその瞬間、右足首にズキンと鈍い痛みが走って、わたしは小さく呻いてその場にうずくまった。すぐにバネさんが気づいて、「おい、どした?」とわたしの隣にしゃがみこむ。ヒカルもちょっと目を丸くしてわたしを振り返った。

「どっか痛むのか?」
「なんか足首が…たた」
「足首?どれ」

浅瀬にそっとお尻をついて座って、バネさんに足首を差し出す。それでヒカルもちょっと眉を持ち上げると、「捻挫か?」とわたしの足首を覗き込んだ。(ヒィ、脚太いのに…!)怪我さえなければこの太い脚を今すぐにでも引っ込めてしまいたい気持ちだったが、わたしの足首を見るバネさんとヒカルの真剣な面持ちを見ていたら、ああなんでこんなくだらないこと考えてるんだろうなんて、ちょっと自己嫌悪に陥った。
バネさんは「うーん…」と唸って首を捻ったあと、わたしを見上げて申し訳無さそうに言った。

「悪い、わかんねーや。オジイならこういうの詳しいんだけどな」
「え、オジイが?」
「…オジイはオレ達の主治医です。ププッ」

ヒカルがそう呟いて吹き出すのとほぼ同時に、バネさんは「つまんねーよ!」とヒカルの後頭部に鉄拳を喰らわせた(そのあまりに完璧なコンビネーションにわたしも思わず感動してしまった)なんだかんだ言ってもヒカルのダジャレをスルーしないあたり、バネさんは優しいなぁと思う(ただ単純に突っ込まずにいられない性格なのかもしれないけど)。大きな手のひらでちょっと顎を擦って、バネさんは続けた。

「そだな、じゃあオジイんとこ行ってみるか」
「うん。左足なら痛くないし、オジイんちまでならひとりでも」
「待て。オレが行く」
「え?」
「オレが一緒に行きます。オジイんちに着替え置いてあるし、アサリも持ってきたい」

その妙にはっきりとした口調に、わたしもバネさんも思わず一瞬黙り込んで、ちょっと顔を見合わせた。しかしヒカルの方はごく当たり前のような表情で、じっとわたしとバネさんの顔を見比べるばかりだ。一瞬の奇妙な沈黙のあと「じゃ、じゃあ…お願いしようかな」と言ったわたしに、ヒカルは納得したように「うぃ」と頷いて、浜に放ってあるビーチサンダルの方に向かって歩き出す。しばらくの間を置いて、隣で黙り込んでいたバネさんが「よくわかんねー奴だな」と小さく呟いた。
 
 
 
 
「…でも、ビーサンで捻挫する奴なんて初めて見たな」
「あ…そういえばわたしも見たことない」
「前代未聞、前人未到。ちょっとオイシイし、ちょっとオシイ。…ププッ」
(?? ヒ、ヒカルワールドすぎてわからん…)

ヒカルが歩くたびに、びしょ濡れのビーチサンダルから海水がぎゅっと滲み出して、乾いたコンクリートにくっきりと足跡を残す。アサリの沢山入ったバケツを左手に持ちかえながら、ヒカルは痛む右足を庇うようにして歩くわたしを振り返った。

「歩けるか?」
「うん、大丈夫」
「あまり無理するなよ。海の怪我だけに、膿が出る…ププ」
「出ないよ!…ったた」

突っ込んだ拍子に思わず右足に体重をかけてしまって、わたしは小さく呻いて足首を押さえる。すると、ヒカルはちょっと鋭い感じのする目をまあるく見開いて、「大丈夫か?」とわたしの足首を覗き込んだ。近くで見るヒカルの顔はそれこそ『ダビデ』なんてあだ名の通り、彫が深くて石膏像のように整っていて、黙っていれば本当に絵本に出て来る王子様みたいだ。「ごめん…平気」慌てて身体を起こしてちょっと視線を逸らすと、ヒカルは「ん?」とちょっと眉を持ち上げて、わたしを見つめた。

「…どうした」
「な、なんでもないよ」
「む…、何か変だ。…まさか、骨折?」
「してないよ!ていうかなんで変だったら骨折になるの」

彼のその突拍子も無い発言をわたしは慌てて否定したけれども、ヒカルは即座に首を横に振って「いや、わかんないぜ」と言うと、大真面目な顔でわたしを見つめ返した。

「捻挫にしろ、ここで無茶したら悪化することがあっかもしれない。…プ。そう言うことだ」
「え…捻挫ってそういうものなの?」
「わからない。…でも、安静に越したことはないと思う。多分」

ヒカルはそう言ってわたしに背を向けると、そのまますっと腰を落として道路にしゃがみこんだ。「え…」ヒカルのその姿勢の意味がわからずにちょっと戸惑っていると、ヒカルはわたしの方を振り返って、「おぶる。乗って」といつもの淡々とした口調で言った。その言葉に、わたしの顔が耳までかあっと熱くなるのを感じた。わたしはヒカルの背中を見つめたまま、ちょっと上擦った声で返した。

「え…、い、いいよ!大丈夫、ひとりで歩けるってば」
「痛いんだろ、足。こっちのほうがはえーし、蠅のごとく…ぷぷっ」
「でも…」
「はい、乗って」

ちょっと迷ったあと「…でも、本当にいいの?」と小声でそっと尋ねると、ヒカルはすっと腕を伸ばして「そのかわりこっち持ってくれ」と、アサリの入ったバケツを指差した。ヒカルはなんだかんだ言っても、ほんとはいつもすごく優しい。「ごめんね、ありがとう」そっと礼を言ってヒカルの背中に身体を預けると、ヒカルは「うぃ」と小さく頷いて、わたしの太ももを抱えるようにして立ち上がった。
 
 
 
 
おぶさったヒカルのワイシャツの背中は海水にじっとりと濡れて生温くて、うなじに落ちるその焦茶色のくせ毛からはきつめのヘアワックスの香りが磯の香りにまじって匂う。ヒカルの肩越しに覗く世界は、わたしの世界よりもずっと高く、遠くの方まで広がっているように見えた。小さい頃は同じ高さだった目線も、今ではもうこんなに違っている。こうしていると、ヒカルがもう幼馴染みの男の子じゃなくて、1人の立派な男の人であるということをいやでもつよく実感させられた。ヒカルの男っぽい首筋を、髪から滴が伝い落ちていった。

「…。髪、ラックス?」
「え…あ、シャンプー?うそ、匂いする?」
「うぃ。ラックスの香りに、俺、リラックス…ププッ」
(すご…さすが野生児)

昨晩使ったシャンプーの匂いなんて海遊びしてるうちに消えていたと思ったから、ちょっと驚いた。ヒカルはわたしの太ももをちょっと抱え直すと、「ラックスも結構いい。CMとか」と付け加える。ヒカルの髪の毛は柔らかくてふわふわしてて外人さんみたいで、小さい頃はいつもうらやましく思っていた。最近ではあのライオンみたいな無造作風にセットされた髪型のイメージしかないけど、たまには何もしてないヒカルの髪の毛も見てみたいと思う。むしろ、わたしはそっちのほうが好みかもしれない。

「でも、意外と重くないな。驚き」
「え、重いよ!肉とかほんとすごいし…お腹とか、脚とか…ううん、全部すごい」
「肉を憎む…プッ。でも、重いってのは多分、思い込みだぜ。…ププッ」

いえ、もし重くないように感じるとしてもそれはきっとわたしが重いのバレないようにめちゃくちゃふんばってるからです!でもヒカルが笑うたび、触れ合う胸にくぐもった声と振動が伝わって、なんだかくすぐったい気分になった。照りつける太陽の日差しにわたしのTシャツの背中だけ、少しずつ乾き始めている。低いエンジン音を立てて1台の車がわたし達の横を通り過ぎて、乾き始めたわたしの前髪がふわっと持ち上がった。ヒカルはちょっとわたしの身体を背負いなおすと、「もうちょいだからな」と背中のわたしに声をかける。わたしはアサリのたっぷり入ったバケツの柄をちょっと握り直して、「うん」と小さく頷いた。

 
 
 
 
「多分、すぐ直る…捻挫、軽い…」
「良かったぁ!ありがとう、オジイ」
「骨折?」
「捻挫だってば」

どうしてこいつはわたしをこんなにも骨折にさせたがるのだろうか。ヒカルは練習着の袖を通しながら「なるほど」と包帯の巻かれたわたしの足首を覗き込む。わたしは縁側に足を投げ出して座ったまま、今日の帰り道のことを考えてちょっと憂鬱になっていた(あ、しかも自転車学校の駐輪場に置きっぱなしにしてたんだった…最悪だ)オジイは救急箱をぱたんと閉じると、ゆっくりと立ち上がって台所に向かう。ヒカルはオジイといれかわりにわたしの隣に腰を降ろすと、持っていたヘアワックスを膝の横に置いて、わたしに言った。

「昼飯、サエさんがさんが焼き作るらしい…プッ。喰ってくっしょ」
「え、サエさんいるの?」
「うぃ。いっちゃんもいる。さっき台所見たら2人で「それはないのねー」とか言ってすげー笑ってた」
(な、なんだそれ…こわ!)

ひんやりと冷たそうな麦茶のグラスに唇をつけて、ヒカルは「ま、なんとかなるだろ」なんて適当に言った。わたしは投げ出した両膝にそっと手を伸ばして、隣のヒカルを振り返る。ヒカルは睫毛を伏せて、グラスの中の麦茶を一口飲んだ。男っぽい喉がごくっと動いて、ちょっとどきっとする。庭の植木に止まっていた1匹の蜻蛉が、空に向かって薄い羽を広げて飛び立っていった。見上げた7月の空は、綺麗に澄み渡っている。
 
 
 
 

プールのとんぼみたいに/20050331