五月。照りつける太陽の日差しを跳ね返す錆びた鉛色の蛇口に、筋張った大きな手の影が落ちる。黒髪を伝って額に滴る汗を首から下げたタオルで拭い、上体を屈めて、蛇口に唇をつけようとした姿勢で、流川の挙動は停止した。汗にしっとりと濡れた長い睫毛は瞬きをすることも忘れ、見開かれた形のまま動けずにいた。薄く開いた唇に、蛇口から溢れ出す飛沫が跳ね返って、乾いたコンクリートに薄く水たまりを広げている。

(なんだ…)

二階の渡り廊下で、見慣れた制服姿の少女が笑っている。その彼女の笑顔の先には、黒い学生服の背中が見える。十数年をともに過ごしてきた自分にはおよそ見せたこともないようなよそ行きの笑顔と仕草で、彼女は男を見上げて照れくさそうに、でも、幸せそうにふわりと微笑んだ。水道の縁についた手の甲に、跳ね返った飛沫がぽつ、ぽつと落ちて滲んだ汗に混じって広がる。溢れる水を唇で受け止めたまま、流川はごくりと小さく喉を鳴らした。

(…なんだ、あれは)

訝しげに眉根を寄せた表情のまま、流川は渡り廊下から視線を逸らせずにいた。蛇口から溢れ出しては流れる水の音と、コンクリートに零れ落ちる飛沫の音。そこに混じってぼたぼたと聞こえたひときわ大きな音にふと視線を戻すと、顎や髪から伝い落ちた雫がバスケットシューズのつま先に降り注いでいたので、彼は水道の蛇口を捻ると、静かに三歩、後ずさった。

濡れた唇を拭おうともう一度タオルに手をかけたところで、流川の脳裏にあの日の景色がフラッシュバックした。

いつもこの水道で、滲んだ汗や唇を滴る水を腕で拭う流川に、彼女がこのタオルを差し出したあの日のこと。晴れ渡った五月の空と、照りつける日差しと、飾らない笑顔で自分を見上げた彼女のことを。

あいつがどこで誰と何をしていようが、俺には関係ないし、どうでもいいことだ。それなのに、今彼女の差し出したタオルで汗を拭うことが、こんなにも胸に引っかかるのは何故だろう。

タオルにかけた長い指をそっと解いて、彼は筋張った腕で自分の唇を拭った。錆びた水道の蛇口から落ちた雫が、濡れたコンクリートの上に落ちて滲んだ。

 

 

乾けば亦/20090413