『モスモス、俺だけど』

「お久しぶり。どしたの、急に」

『今一人で海にいんだけど、海だけになんかさびシーくて…ぷっ』

「あれ、テニス部の人達は?」

『今日練習休みらしいんだけど、なんか間違えた。で、今暇?』

「え、別に大丈夫だけど…」

『じゃ、待ってるから。裏門出たとこの浜にいる』

「え…ちょっ」

『水着と着替えを忘れずに。じゃ、また跡部。…ぷっ』

「ちょ…っ…こら、ヒカル!」

有無を言わさず、ヒカルは通話を切ってしまった。わたしはしばらく液晶を見たまま「あんにゃろー」とぷるぷると震えていたがどうせ今日は特に予定もなかった、外はかなり暑そうだけど夏休みに入ってから家に引きこもりがちだし、それに、たまにはせっかく付き合い始めた恋人とも会いたいと思う。わたしは立ち上がり、洋服ダンスを開けて一番手前にあったビキニを取ると、着ていたシャツを脱ぎ捨てて、急いで着替えを始めた。
 
 
 
 
 
外に出ると、家にいるよりも蝉の鳴き声がずっと壮絶に耳に届いた。絵の具みたいに真っ青な空に、ソフトクリームみたいな雲がもくもくと浮かんでいる。わたしは汗だくだくで自転車を漕ぎながら、ヒカルとの待ち合わせ場所に向かっていた。

(あっつー…)

ふと車輪の脇を見ると、アスファルトが所々溶け出している。わたしはそれでちょっとぎょっとすると、さっきまでのんきに『ヒカルと二人で海なんて、よく考えたらちょっと楽しいかも』なんてルンルン気分だった自分が憎らしくなった(あの時もうちょっと冷静に考えていればこんなことにはならなかったかも…こんちくしょー)。わたしは『うおー!』と内心雄叫びをあげながらペダルをこぎまくって裏門の脇にある駐輪所に自転車を止めると、カゴからカバンをひったくるようにして、そのまま走って浜に向かった。

浜に出ると、ヒカルの姿は探さなくともすぐに見つかった。誰もいない静かな浜辺で、制服のズボンの裾をまくり上げ、シャツの前を全開にして、吹き抜ける潮風にちょっと寝癖のついた髪を揺らしながら、ヒカルはスポーツバッグにもたれてボーッと海を眺めている。わたしはちょっと足音をころしてヒカルの背後に立つと、「ヒカル!」とその肩をぽんと叩いた。ヒカルはそのまま喉を反らして上向きにわたしを振り返ると、「お」と声を上げた。

「熱い太陽の下、どうもお疲れサンでした…ぷっ」
「あは、久しぶり」

夏休みが始まって以来、まともにヒカルの顔を見るのは実に1週間ぶりだった。特に変わったところはないけれども、もしかしたらちょっと日焼けしたかもしれない、いつもよりもちょっと輪郭が引き締まって見える。ヒカルは「おひさしぶり」とちょっと頷くと、持っていた食べかけのアイスバーを「これ、どうぞ」とわたしに差し出した。わたしがちょっと驚いたように「え、いいの?」と目を丸くして尋ねると、ヒカルは待ってましたというかのように真っ黒な目をきらきらと輝かせて、言った。

「ア、イースよ。…ぷっ」
「相変わらず、くっだらなー」

けらけらと笑うわたしに満足したようにヒカルは唇の端を持上げると、裸足の爪先を砂浜の中に突っ込みながら「早く食べないと溶けるよ」と言った。棒を伝って溶け出すバニラアイスにわたしは「わ!」と声をあげると、あっというまに腕まで垂れそうになるそれを追ってぺろ、と舐める。ヒカルはそんなわたしを愉快気に見つめて、言った。

「…楽しそ」
「や、別に楽しくはないけど…」
「バニラ味なのに、楽しソーダ…ぷっ」

ヒカルはひとり呟いて、またくくっと肩を震わせて笑っている。わたしは「絶好調だね」とちょっと笑いながら履いていたサンダルを脱ぐと、ヒカルの革靴の隣に置いた。ヒカルはそれでちょっと眉を持上げると、思い出したようにわたしに「今日、泳げる日?」と尋ねる。わたしはそのヒカルの気遣いに「大丈夫だよ、水着も着てきたし」と笑ってシャツの下を指差した。それでヒカルは片眉を持上げて嬉しそうに「そ」と笑うと、すっと立ち上がって、大きく伸びをした。シャツの下に見える日に焼けた肌が、なんだかすごく男の子っぽい。

「…じゃ、さっそく泳ごーぜ。善は急げと言いますし」
「え、その格好で泳ぐの?」
「うい」

ヒカルはズボンのポケットから携帯を引っぱり出して開けっ放しの鞄の中に放り込むと、すっとわたしの眼前に大きな手のひらを差し出した。そして、驚いたように彼を見上げるわたしをごくごく真面目な顔でじっと見つめて、いつもの淡々とした口調で言った。

「行くよ」
「え」

彼はすっと体を屈めてわたしの手を握って立ち上がらせると、わたしの手を柔らかく握りしめたまま、波打ち際に向かって歩き出した。実は彼と手を繋ぐのはこれが初めてだったけれども、ヒカルの手はかたくて、すべすべして、わたしよりずっと大きくて、握りあっているはずなのになんだか包み込まれているみたいな感じがした。なんだかだんだん嬉しくなってきて思わず彼の大きなその手をぎゅっと強く握ると、先を歩くヒカルの肩がほんの少しだけ跳ねるのがわかった。

濡れた砂浜を越えると、わたしたちの足の指に生温い海水が触れた。そのままずんずんと進んでふくらはぎまで浸かるところにくると、ヒカルは抑揚のない声で「あ、いー感じ」と呟いた。底に沈んでいたひんやりとした海水が先を歩くヒカルの脚によって掻き混ぜられて、わたしの足首のあたりをひんやりと撫でていく。わたしはなんだか楽しくなって、「わ、きもちー」なんてけらけらと笑った。ヒカルもゆっくりとわたしを振り返って、笑った。

彼は長い脚をおもむろに持上げて、そっと水面を蹴り上げる。太陽に反射してきらきらと輝いたそれは、あっというまにわたしのシャツを濡らした。ヒカルは呑気にきゃーなんて声を上げて喜ぶわたしにちょっと目を細めて、「楽しそ。さすが」と微笑む。わたしは「まかせて」と笑うと、ヒカルの手を握りしめたまま、自分も水面をちょっと蹴り上げた。大きな水飛沫が空にきらきらと舞って、すぐにわたし達の頭上に降り注いだ。

「豪快」
「もしかして、『ワイルドな人がいるどー』って言おうと思ってる?」

「俺が言いたかったのに」なんて怒るかと思ったけど、ヒカルはちょっと目を輝かせて「それ」と笑った。相変わらずヒカルの言動はいつも先が読めないなぁ、なんて内心ちょっと笑いながら、そっとその横顔を見上げる。彫の深い、日本人離れした端正な面立ち。いつもわざと無造作風にセットされている髪は、今日はところどころ寝癖がついていてこれこそ本当の無造作スタイルだ。夏の日差しと水飛沫を浴びて、濃くて長い睫毛の先端がきらきらと輝く。思わずぼーっと見とれていると、不意にヒカルはぐるんとわたしの方を振り返って、いつもと同じ淡々とした口調で言った。

「…ちょっと、何見てんの。エッチ」
「えっ、ち、ちがうよ…!今のは…」
「あ、今の」
「え?…あ」

ヒカルは顔の横に人さし指を立てて「『エッチ』と、『えっちがうの?』」と真直ぐにわたしを見て言う。わたしが彼のその行動に思わずちょっと吹き出して「やだ、ヒカルのダジャレが移ったのかなー」と笑うと、ヒカルは「結構いいと思う」と妙に真面目な顔で返してきたので、それがまたおかしくて、わたしは笑ってしまった。水面を掻き混ぜる足に時折触れるひんやりと冷たい感覚が心地よい。ヒカルはしばらく黙ったままずっと水面を見つめていたが、やがてわたしの方をゆっくりと振り返ると、繋いだ手をちょっと持上げて、言った。

「…初めて、手繋いだ」

一瞬、え、今更?とも思ったけど、そう言ってわたしをじっと見つめるヒカルのちょっと照れたような真面目な顔を見たら、彼は彼なりにこの状態に照れくささを感じていて、今この瞬間までずっと言い出すにも言い出せなかったんだと気付いた。途端にわたしまでなんだか照れくさい気分になって、「そだね」と小さく返してちょっと俯く。ヒカルは静かに頷くと、掲げた手をそっと降ろして、そのままゆっくりと大きく前後に振る。そしてしばらく黙ってそうしたあと不意にふっと顔をあげると、嬉しそうな声でこう言った。

「…夏の海だけに、こういうのもサマーになるかシーら」

不意打ちの大作に、わたしは思いきり吹き出してしまった。けれども当のヒカル本人はごく真面目な様子で、むしろちょっと照れたような表情でじっと水面を見つめている。彼のその日に焼けた肌には、太陽の光を受けた波の模様がゆらゆらと揺れていて、なんだかすごく、きれいだった。ヒカルのダジャレじゃないけれども、本当にすごく、さまになってるかもしれない。眩しい太陽の光に目を細めて、わたしはヒカルのきれいな横顔をじっと見つめていた。

 
 
 


 

遠浅/20040803