夏を間近に控えた生ぬるい湿った夜の風に、彼のコートの襟がはためいている。先刻まで降り続いていた雨で濡れた青々とした草原を、赤褐色の毛の馬の蹄が音を立てて駆け抜ける。何度乗っても慣れない感覚に強張る体を、甲冑を外した彼の身体が受け止めていた。耳元でうなる風と草原を駆ける蹄の音の合間に、彼の声を聞いた。

「雨上がりの遠乗りってやつも、悪くねえだろ」

本当は、遠乗りは怖い。目を閉じていても耳元で轟々と唸る風の音や、振り落とされそうに上下に激しく揺さぶられる感覚は、どうしたって苦手だ。

それでも、愛馬に跨った彼が庭から部屋のバルコニーを見上げるたびに、わたしは何度でも頷いてしまう。彼のその鋭い紅蓮色の瞳が少しだけ柔らかくなる瞬間や、バルコニーの大理石の手摺から飛び降りて、彼の腕に力強く引き寄せられる感覚が、たまらなく好きだった。彼と同じ時間を過ごせる喜びは、遠乗りの恐怖よりもずっと大きかった。

彼の邪魔をしない位置で鞍の端をつかむことに必死だったは、シードの問い掛けに頷くのが精一杯だった。シードは自分より頭ひとつ分は小さい彼女が身体を強張らせながらも頷いているのを見ると、濃くて長い睫毛を伏せて、そっと唇の片端を持ち上げた。そして、手綱にかけた筋張った長い指を掛けなおすと、肩をこわばらせて縮こまるをよそに、愛馬の横腹を足で蹴りつけて合図を出す。彼の愛馬は俄かに嘶きを上げると、突如として全速力で駆け足を始めた。は思わず目を見開いて短く息を呑むと、身体を預けていたシードの胸に咄嗟にしがみついた。

「だめ、だめ、シード!わたし、落っこちちゃう!」
「落ちるかよ」
「だめ、絶対落ちちゃう!」
「ならそのまま、しがみついておくんだな」

まあるい瞳一杯に涙を溜めたは、一瞬の絶望的な表情を浮かべた後、彼のコートの中に隠れるように顔を突っ込んだ。シードは手綱に長い指をかけて、視線を真っ直ぐ正面に向けたまま、唇の端だけで静かに皮肉っぽく笑って、自分のコートの中にすっぽりと収まってびくびくと震えている彼女の頭上に言葉を落とした。

「おい。好きなんだろ?」
「好きだよ!好きだけど…でも、怖いの!」
「何がだよ」
「このまま放り出されそうで!」

目を強く瞑ってシードのコートに力いっぱいしがみついたまま、彼女は悲鳴のように声を上げた。シードはその言葉にアーモンド形の鋭い瞳をすっと細めて自嘲的に笑うと、掠れた声で小さく呟いた。

「誰が放り出すかよ」

の懇願は彼の心には届かない。流れる景色はスピードを上げて、彼のコートの中に隠れていても耳元で轟々と唸る音と上下に揺さぶられる感覚は激しさを増していく。『痛えだろ!』いつそう言ってげんこつが飛んでくるかわからないくらい、めいっぱい指に力を込めて彼の背中を抱きしめる。でも彼は静かにわたしの体を受け止めたまま、馬を走らせていた。

(俺ならこの感情に『でも、』はない)

 

 

迷わずの闇/20090630