「やっと保護者様のお出ましかよ」

兵士や民間人で賑わう週末の酒場の奥のテーブルに、自分の同僚と飲みつぶれているの姿を見つけた途端、クルガンの眉間にはいつもにも増して深い皺が刻まれた。俄に襲う軽い頭痛にこめかみの辺りを長い指の先で押さえたあと、彼はなるだけ感情を抑えた調子で、同僚に尋ねた。

「…一体なんだ、これは」
「疑われる前に言っとくが、これでも止めたんだぜ?」

シードは空いた瓶や肴の小皿の並んだ木製の円卓の柱を両足で蹴り出して、椅子と共に上体を後ろに大きく倒して同僚を仰ぎ見た。その彼のすぐ右隣で、円卓に突っ伏して意識を手放してなお、酒の残ったグラスに力の抜けた指をかけている彼女の姿に、クルガンはつり上がった細い目をさらに細めて静かに息を呑んだ。重い足取りでもう一歩近づくと、薄く開いた彼女の唇から小さな寝息が漏れているのがわかった。

すっかり呆れた様子で顔を引きつらせたクルガンを前に、シードは体を起こしておもむろに長い脚を組むと、一つ咳払いをして、改まった調子で尋ねた。

「…ていうかお前、結婚する予定とかねえだろ?」
「貴様の言っている意味が全くわからん」
「だろ?俺だってわかんねえよ。でもこいつがそう言い張って聞かねえからさ」

「ほら見ろ馬鹿女、やっぱりお前の早とちりじゃねえかよ!」そう言うと、シードは円卓に突っ伏したの頭を筋張った大きな手でぐしゃぐしゃと掻き回した。彼女は円卓に頬を押し当てた態勢で、されるがままに揺さぶられている。クルガンは薄い瞼を閉じて深く息を吐き出した。

「…がそう言ったのか」
「ああ。なんか、お前の執務室で縁談関連の内容の文書を見つけたらしくてさ」

クルガンは「ああ、」と短く答えると、細い眉根を寄せた。

その手の文書が送られてくるのは珍しいことではなかったが、封を開けてそれとわかるとすぐに処分するように心がけていた。しかしここ数日は仕事に追われていたため、気付かないまま執務室に放置されていたものがあった可能性も否定できない。その文書は自分にとってさほど珍しいものでなかったとしても、何も知らない彼女が見つけたとすれば、驚き、狼狽するのも無理はない。――しかし、彼女の瞳に映る自分よりも、その文書の内容を鵜呑みにされたことはやや心外ではあったが。

「俺は絶対に有り得ねえって何度も言ったんだけどよ、こいつ泣いてばっかで全然人の話聞かねえし」

同僚は少し癖のある赤褐色の長い髪を鬱陶しげに払うと、すっと鼻筋の通った高い鼻を筋張った長い指でごしごしと拭って、改めて自分を見下ろす同僚の表情を覗き込んだ。

「…ていうかお前、もうこいつとやったのか?」
「…」

無粋の度を超えた同僚の質問に、クルガンは俄に眉間に深い皺を刻むと、嫌悪に満ちた表情で同僚を見下ろして「愚問を」と吐き出した。しかしシードは臆することなく、鋭い紅蓮色の瞳で同僚をまっすぐに見上げたまま言葉を続けた。

「『ずっとお前に距離を置かれてる。それは、こういう形でお前がいつ自分の前からいなくなっても、すぐに立ち直れるようにするためのお前なりの優しさなんじゃないか』って」

クルガンは目を見開くと、唇の端をわずかに強ばらせた。

「全く、冗談じゃねえよな」

シードは円卓に並んだ瓶に視線を落とすと、形の整った唇の片端を持ち上げて、自嘲的にも見える独特の表情で微笑んだ。

「暢気な面して言うことは残酷だ。お前に、これだけ惚れさせておいてよ」

クルガンは同僚の声に耳を傾けたまま、視線だけを動かしてそっとを見た。シードに掻き回されて乱れた柔らかな前髪の隙間から、白い肌や伏せた長い睫毛が覗いていた。

シードはしばらく黙ったまま目を伏せていたが、やがて小さく溜め息を吐いて「うっし、」と声を上げると、一思いに立ち上がった。

そしてクルガンに向き直ると、一歩、二歩、歩いて向かい合う形で彼の肩に並んで立ち止まる。訝しげな視線で同僚を見やると、同僚はクルガンの肩を筋張った大きな手で叩き、片眉を持ち上げて皮肉っぽく笑った。

「ってわけで。…こいつの愚痴代はもちろん、お前持ちだよな?」
「…馬鹿を言え」

抑揚のない低い声を紡いだクルガンの唇は、わずかに笑みの形を作っていた。シードはその横顔にくくっと肩を震わせて笑うと、「ごっそさん」とコートの裾を翻して酒場の外へ歩き出す。その足音が街の喧騒に掻き消されて行くのを背中で見送って、クルガンは円卓に突っ伏した彼女を静かに見下ろした。

そっと歩み寄って、頬にかかる柔らかな髪を出来るだけ丁寧な仕草でかき上げる。すると、安らかな寝息を立てるあどけない少女の寝顔が、確かにそこにはあった。そしてその頬の滑らかな輪郭には、涙の跡がうっすらと残っていた。

クルガンは彼女を見下ろしたまま、深い灰色の睫毛を静かに伏せる。天井から吊されたランプの薄明かりが、彼の痩せた頬に睫毛の影を長く伸ばした。

(…お前が思うほど、俺は器用じゃない)

冷え切った指が壊れ物に触れるように彼女の暖かな頬の輪郭を辿った瞬間、酒場の喧騒が少しだけ遠のくように感じた。

 

 

 

灰色の狼は牙を折った/20090701