「うっく…ひっく…」

当の本人からすれば自身の深刻な欠点を改めて知った訳で、ショックも大きいだろうし泣きたくもなるだろう。しかし部外者である自分からすれば、今の彼女は情けない笑い物に過ぎなかった。肩を落として溜め息を吐くと、クルガンは頭上高く、木の枝に引っかかって事無きを得ている彼女と、彼女を攫った犯人であるその腰当の金具に巻き付いた大きなふうせんを見上げた。

 

グリンヒル市とマチルダ騎士団領との境である検問所をを伴って偵察していた時の出来事だった。兵からの状況報告に耳を傾けていたクルガンは、突如として静寂を裂いた少女の悲鳴に、色素の薄いグレーの瞳をわずかに見開いて振り返る。悲鳴の上がった方角から、羽を休めていた鳥達が一斉に飛び立っていくのが見えた。

『こ、この悲鳴はまさか…殿!』慌てた兵達が腰に下げた剣に咄嗟に手をかけて駆け出そうとしたその瞬間、クルガンは彼らの行く手を遮るように即座にその手で彼らを制した。微塵も動じる様子もなく、沈着な態度で兵達を見回した彼は「続けろ」とだけ、短く命じた。

『えっ…し、しかしそれでは、殿が…』剣を抜きかけた態勢のまま困惑の表情で自分を見上げた兵に、クルガンは先程よりも若干強い調子で「構わん、続けろ」と繰り返す。戸惑いを隠しきれない表情で兵達が鞘に剣を収めようとしたその瞬間、彼らの表情は空の一点に奪われ、そのまま凍り付いた。

絶対零度の表情で自分達を見つめるクルガンの頭上に広がる青空を、三つの赤いふうせんにつり上げられた が風に乗って流れるように運ばれていく。視線を奪われたままただ呆然と立ちつくす兵を前に、胸のポケットから取り出した仕事用の銀色の縁の眼鏡を長い指ですっとかけると、クルガンはまるで何事も無かったかのように続けた。「交易商の往来は?」。

 


「はりも、持ってた分、…、全部、使っちゃって」

彼女の言い分によると、足元を駆けていったうさぎに気をとられて一瞬油断した隙に、ひいらぎ達に囲まれて総攻撃を受け、挙げ句の果てにひいらぎの精達によってふうせんで飛ばされたらしい。言いながらまた思い出したのか、彼女は震える唇を噛んで手のひらで顔を覆って嗚咽を漏らした。

(…一体どうしたらそんな目に遭えるんだ)

クルガンはあきれ果てた表情で額を押さえると、鋭い印象の目をそっと細めて、紐の絡まっている彼女の腰の金具を見上げた。絡んでいた三つのふうせんのうち、二つは既に外れて木の枝の間に揺れ、残りの一つの紐はいまにも外れそうに緩んでいるのが見えた。

クルガンはかけていた華奢な銀縁の眼鏡を外して右の胸のポケットに差し込むと、枝の間でぐずっているに向かって冷静な口調で指示を出した。

「泣くのをやめてふうせんの紐を見ろ。お前の腰当の左側だ」
「…う、ん」
「もう大分緩んでいる。恐らく指で解けるが、その前に」

は涙で濡れた目元を手の甲でごしごしと力強く拭うと、確かめるようになにげなく腰の金具に手を伸ばす。その刹那、見上げたクルガンの薄いグレーの瞳は大きく見開かれ、その薄い唇は咄嗟に彼女の名前を叫んだ。「、」

「よせ、この大馬鹿者!」

『え、』が目を丸くしてクルガンを見つめ返した瞬間、彼女の指先は探るようにその腰の金具に触れた。ふうせんの紐は、音も立てずに彼女の指の隙間をするりとすり抜けた。「あ、」体を離れていくふうせんの紐に視線を奪われたまま、の体はまるでスローモーションのように宙へ投げ出される。彼は「く、」と顔をしかめると、頭上の彼女に向かってその腕を伸ばした。

 

 

「…ごめんなさい、ごめんなさい!」

彼女の体を抱き留めた拍子に彼の胸ポケットから投げ出された眼鏡は、草原に放り出されたままその薄いレンズに小さな亀裂を生んでいた。体の上に乗った彼女が今にも泣き出しそうな声で何度も繰り返し謝る声を聞きながら、クルガンは天を仰ぎ、静かにその薄い瞼を閉じる。吹き抜ける風に木々がざわざわと音を立て、丁寧に撫でつけられた銀色の髪の先がわずかにその白い肌を掠めた。

(…本当に運が無いのは、案外俺の方かもしれん)

穏やかな春の風にそっと小さく息を吐いて、彼は思った。

 

 

 

天使が不幸をもたらす日 /20090703