裸の体に包帯を巻いた姿で寝台の上で上体を起こしたは、窓の外、真夜中の暗闇でもはっきりと見て取れる叩きつける大粒の雨を静かに見つめていた。鎮痛剤が効いているため体の痛みはそれほどない。テーブルの上、空になった果実の籠に並べて置かれた銀のナイフの刃が、闇夜を裂く雷光を映し出している。出窓に置かれた蝋燭の灯りは頼りなげにゆらゆらと揺れながら、裸に近いの肉体の輪郭と、彼女を見つめる青年の横顔の影を薄暗い床に伸ばした。


「…『安静にする』って、難しいんだね。ただ寝てればいいだけだと思ってたけど、いろんなこと思い出しちゃうんだ」


出来るだけ上手に笑ったつもりだったけど、クルガンは静かに目を細めてわたしを見つめ返しただけだった。ひんやりと冷たいシーツをたぐり寄せて、わたしはそっと俯く。何度見ても、自分の体に包帯が巻かれているのは見慣れなかった。

戦場でわたしが浴びた二本の矢は辛うじて急所を外れていたらしい。それでも最後に意識を手放してからの数日間、わたしはずっと意識を失ったままだったという。

わたしの体に矢が刺さったこと、見たこともない量の自分の血を見て、痛いはずなのによくわからなくて、気が付いたら枯れた草原に倒れていたこと。誰かがわたしの名前を呼ぶ声、抱き起こされる感覚。薄れる意識にやがて訪れた音のないひとりぼっちの世界には、あの人の影すらなかった。

――思い出すと、まだ少し怖かった。

割れるような轟音と共に窓から差し込んだ強い光に、寝台の傍らに腰を降ろしている青年の静かな表情が夜の暗闇に白くはっきりと映し出される。は包帯の上から胸の傷口をそっと撫でると、ゆっくりと視線を持ち上げて、彼を見上げた。感情の読み取れない薄いグレーの瞳が、わたしの顔をじっと見つめていた。


「あのね、」


返事の代わりに、彼は少しだけ眉を持ち上げてわたしを見る。空になった鎮痛剤の袋の隣で、水の入ったグラスにわたしを見つめる彼の端正な横顔が映し出された。


「わたし、勝手だけど、どうせ死んじゃうなら最後はクルガンに見つけて欲しかったの。どうせこのまま死んじゃうなら、最後にクルガンに抱きしめて欲しかった。でも、」


激しい轟音と強風に窓のサッシがたがたと音を立て、ガラスを叩く音はますます激しさを増している。わたしは少し唇を噛んだあと、もう一度彼を見上げて、ちょっと笑って言った。


「…もしあの時、最後に見たのがクルガンの顔だったら、わたし、そのまま死んでたかも」


もしひと目でもあなたの姿を見ていたとしたら、夢に見るほど聞きたかったあなたからの言葉や、あなたに言えなかった大切な言葉、きっとすべて忘れてしまうくらいに満たされていただろう。でも、最後に見たわたしの世界にも、薄れゆく意識の中で見たひとりぼっちの世界にも、どんなに探しても彼の姿はなかった。


「縁起でもないことを言うな」


言った彼の口調はいつもと変わらない厳しさを持っていたけれども、その表情はいつもよりも少しだけ曇って見えた。「…ごめん」胸の包帯に視線を落として、わたしは呟く。彼はおもむろに上体を起こすと、胸の前でその腕を組んで薄い瞼を閉じた。それは一人考え事をする時の、彼のいつもの癖だった。わたしは俯いたまま、唇の端っこで少しだけ笑った。


「わたし、きっとまだ沢山悔いがあるんだね」


クルガンはゆっくりと瞼を持ち上げて、静かな表情で彼女を見つめる。薄れゆく意識の中で、がどんなに求めても手に入れられなかったクルガンの影が、ここには当たり前のように存在していた。

再び、轟音と共に、辺りが強い光に包まれる。と同時に、出窓に置かれていた蝋燭の炎がふ、と音も立てずに消えた。突如として訪れた深い暗闇の中、白い雷光だけが二人の頬を照らし出す。青年の顔をまっすぐに見つめたまま、はその唇をゆっくりと動かして、言った。


「…ねぇ、クルガン。ひとつだけ、願い事を聞いてもらえる?」

「…なんだ」

「わたし、一度で良いから、クルガンに『愛してる』って言われてみたい」


暗闇の中で、彼の表情は読み取れない。ただ、彼の影がわたしの言葉を聞いても微動だにしていないことだけは確かだった。そして間もなく、いつもと変わらない口調で彼は返した。


「断る」


その答えに全く傷つかなかったかといえば嘘になる。でも、彼の返事はどこかでわかっていたような気がした。それがわたしの望むところと違ったとしても、彼が出した答えを聞けたなら、それでいいと思った。
クルガンは暗闇の中にうっすらと浮かんで見えるの顔を見つめたまま、静かな口調で続けた。


「俺への望みでお前が生き長らえるなら、その望みは一つでも多い方がいいだろう」


は目を丸く見開いてしばらくクルガンの影を見つめていたが、やがてその目をすっと細めると「…そっか、」と肩を落として笑う。途端に安心したような情けないような気持ちになって、わたしの目から涙が一粒こぼれるのがわかった。

確かに、彼の言葉の通りだと思った。今回は奇跡的に事無きを得たが、戦争は未だ終わる気配を見せず、いつ今日のように、命を落としかけたっておかしくない。そしてその時、わたしがまた同じようにこうして戻ってこれる保証なんてどこにもない。ならば、それがどんな些細な願いであったとしても、少しでも生きることに執着する理由があったほうがいい。

きっと、この暗闇なら彼からわたしの表情なんて見えるはずがない。頬を伝った涙をなにげない仕草で拭おうとしたわたしの手を、突然、筋張った大きな手が強い力で掴んだ。驚いて目を見開いたわたしの鼻の先に、クルガンのまっすぐに通った鼻の先が触れる。窓から差し込んだ強い雷光に一瞬だけ照らし出された彼は、わたしの知らない男の人の顔をしていた。

声を上げる暇もなく、わたしの唇の隙間を縫うように、彼の唇が割り込んだ。寝台が鈍い音を立てて軋み、彼の長い指がシーツに海に沈む。薄い舌がわたしの歯をなぞって、求めるようにわたしの舌を探り当てる。舌を絡められては、確かめるように何度も求められ、思わず小さく肩を跳ね上げると、クルガンは掴んだわたしの手のひらを辿って長い指をわたしの指と絡ませて、そっと力を込めた。

鼻先をつけたまま、クルガンはわたしの瞳を覗き込む。鋭くつり上がった目の中で、見慣れた薄いグレーの瞳が、まっすぐにわたしを見つめている。震える睫毛の先で見上げると、唇が触れる距離のまま、クルガンは低い声で呟いた。



「どうしても俺の口からその言葉を聞きたいなら、その瞬間まで生きていろ」



轟音と共に鋭い稲妻が走り、強風に煽られた大粒の雨が窓を叩く。暗闇の中で声を殺して泣くわたしの頭を、彼の大きな手が静かに抱き寄せた。

 

 

 

願うほどに果たされぬ永久の約束 /20090707