彼にとっての俺は幼なじみであり、仲間であり、信頼できる後輩であり、何より、自分の彼女に十年来想いを寄せ続けている男だ。
しかしきっと、こんな状況でも彼は余裕だろう。むしろ、この状況を一人のテニス部員として純粋に楽しんでいるかもしれない。彼は、彼女と同じ番号の書かれたノートの切れ端を手に感動のあまり硬直した俺に、いつも通りのあきれるほど爽やかな笑顔を向けて、さらりと言ってのけた。

『やったじゃん、ダビデ』

 

ビーチサンダルで踏んづけた草が、濡れた音を立てた。風が吹き抜けて辺りの木々がざわ、と音を立てると、は小さく悲鳴を上げて肩を縮こまらせる。くたびれたカーゴパンツのポケットに片手を突っ込んだまま何気なく隣を振り返ると、 がぎゅっと強く目を瞑ったまま歩きだそうとしていたので、俺は思わず噴きだした。

「…ちょっとさん、何してんすか」
「え…?え、何もしてないけど」

俺の言葉に慌てて目をぱちっと開くと、彼女は取り繕ったようなすました表情で俺を見上げる。「とぼけても無駄だぜ」立ち止まって彼女の顔の前で人差し指を立てると、は小さく「う…」と小さく呻いて、曇った表情でビーチサンダルの爪先に視線を落として呟いた。

「だって、怖いし…」
「そんな無茶して、その辺のコケにつまずいてコケる姿はこっけーだろうな。…ぷっ」

生ぬるい風が吹いて、俯くの白い頬を焦茶色の髪が撫でる。彼女はしばらく考え込むようにじっと黙っていたが、やがてがっくりと肩を落とすと、力のない声でまた呟いた。

「はぁ…肝試しって苦手だな。なんで強制参加なんだろう」
「自由参加だったかもな。サエさんさえいなければ…ぷ」
「ほんと、ほんと!サエって結構勝手なとこあるんだよね〜」

『いつもそうなんだから』『この間も』『あの時だって』唇をとがらせた不満げな彼女の表情が、紡がれる言葉のたびに佐伯の恋人であるの姿に変わっていくのを見て、俺は思わず視線を逸らして「だな」と彼女の言葉を遮るように相づちを打った。そして逃れるように何気ない仕草で再び歩き出すと、佐伯への不満の声をあげていた彼女も、口をつぐんで慌てて後ろからついてきた。

 

「…何にしても、ダビデとペアで良かったよ」
「…マジすか」
「そうだよ。だって、ダビデは優しいし、頼れるし」

思わず緩みかけた口元を必死で隠しながら、「ふーん」と精一杯適当ぶった返事をすると、彼女は柔らかく微笑んで俺を見上げた。後になって考えれば、彼女のその言葉の次にはきっと佐伯の名前が続いたのだろうが、ちょうどその言葉を遮るように、辺りを生ぬるい風が吹き抜けた。葉が擦れあうざわざわした音が辺り一面に響く。 は俄に顔を強ばらせると、またぴたりと立ち止まった。俺はゆっくりと振り返って、彼女を見つめた。

「うぅ…も、もう帰りたい」

もし俺が、幼なじみを越えて、仲間を越えて、信頼できる後輩を越えて、彼女にとって特別な存在だったとしたら、こんな時、震える彼女の手を握ることや、その震える肩を抱き寄せることを許されるのだろう。しかし現実には、俺は幼なじみであり、仲間であり、信頼できる後輩であるに過ぎず、何より、彼女の胸には心に決めた、俺ではない誰かがいる。

(『サエさんさえいなければ』)

俺は俯く彼女の肩を人差し指の先でちょいちょいと軽くつつくと、涙に潤んだ目で自分を見上げるに、自分のシャツの裾を指さして言った。

「ここ、掴んでろ」
「え…いいの?」
「ああ。コケるなよ」

彼女は顔一面に安堵の笑みを浮かべると、嬉しそうに俺のシャツの裾を掴んで、その瞼をぎゅっと閉じた。どこまでも俺を信頼しきったその無防備な表情に一瞬心臓がどくりと跳ね上がったが、すぐに 佐伯の笑った顔が頭をよぎって、心地よい甘い心臓の痛みも、押し潰されるような鈍い痛みへ変わった。

「…やっぱりダビデ、優しいね」

背中から聞こえた彼女の甘い声に、楽しげな佐伯の声が重なって聞こえる。『やったじゃん、ダビデ』。

(…よく言うぜ)

くたびれたカーゴパンツのポケットに突っ込んだやり場のない手を持て余したまま、俺は光のない夏の夜の闇を一人、進んでいく。

 

 

 

 

行き場のない左手/20090905

横恋慕企画『can not Angel!』様に提出させていただきました◎