赤橙の炎の縁が、闇夜の濃紺に輪郭をぼかしている。大理石の柱には、王家の紋様が細やかに刻まれている。わたしはそっと目を伏せて、小さく深呼吸をする。体がいくつあっても余ってしまいそうに大きく上等な寝台が、わずかに軋んだ。仰向けに横たえられたわたしの体に覆いかぶさった漆黒の影――ルカ・ブライトは、闇夜にその輪郭を溶かして獣のように低く掠れた声で笑った。

「処女だけでなく、命をも捧げるか」


わたしがこの世に生まれた頃には既に、ルカ・ブライトはわたしの婚約者であった。

少なくとも、わたしにとってのそれは定められた残酷な運命ではなかった。幼いながらにまだ見ぬ皇子を想い、皇子のこととあらばどんな些細な噂も聞き逃さなかった。初めて彼と顔を合わせた時は、夜も眠れぬほどに舞い上がってしまって、乳母をすっかり困憊させたものだった。初めて目にした皇子は凛とした立ち姿で、わたしを静かに見つめていた。

しかし、戦争や内乱により情勢が混乱に陥ると、皇子に関する噂はぱったりと途絶えた。そして彼と会える日を指折り数えたわたしを待っていたのは、耳を塞ぎたくなるような王家の現実と、変貌しきった皇子の姿だった。


鋭くつりあがった切れ長の目の奥、その漆黒の瞳は射抜くようにわたしを見下ろしている。わたしの喉にかかる筋張った長い指は、その気になればいともたやすくわたしの息の根など止めることができるだろう。彼は唇の片端を持ち上げて皮肉っぽく目を細めると、獣が唸るような低い掠れた声でわたしの耳元に囁いた。

「抵抗ひとつ無いとはな」

彼の体重を受け止めたわたしの体は、ますます深く寝台に沈む。うっすらと開いた目で、わたしは彼のたくましい喉仏がゆっくりと上下するのを見た。はだけた漆黒の衣から覗く鍛え上げられた肉体は、もはやわたしの知るかつての少年のそれではなかった。彼は唇の端を持ち上げたまま、嘲るように笑って続けた。

「名家の娘とやらも、運命には抗えぬか」

凶暴な獣に組み敷かれた草食獣は、獣の肩越しに見る最期の空に何を思うのだろう。喉の奥でくつくつと低く笑う声を聞きながら、わたしは静かに彼を見つめる。闇夜に浮かぶ黒衣の彼はまるで黒狼のようだと思った。ならばわたしは捕らえられた彼の獲物なのだろうか。彼の筋張った長い指はやがてわたしの皮を裂き、獣のように大きな唇で、わたしの肉を食いちぎるのだろうか。しかしわたしの首にかかった長い指は、決して狂気を纏うことはない。わたしは知っていた。

小さく息を吸い込んで彼を見上げる。鋭くつりあがった目尻が、わずかに細められた。

「ルカ。わたしの運命って、何なの?」

ルカはわずかに眉を持ち上げると、わたしの首にかける指にわずかに力を込めたあと、鋭い目をますます細め、嘲るような態度で語気を強めて言い放った。

「お前自身が一番よくわかっているだろう。お前は、ブタどもの作り上げた腐った王家の一族となるのだ!」

鋭い牙を剥き出しにして、彼はにやりと嗤った。わたしは静かに瞳を閉じて、彼の言葉を受け止める。狂気を纏う彼の言葉は、鋭い狂気を纏ってわたしの胸に降り注ぐ。わたしはそっと瞼を持ち上げて、わたしの視界を占領する黒い狼を見据えて、そっと唇だけで呟いた。

「…だから、わたしを殺そうとするんだね」

――あなたとの運命に繋がれたわたしが、王家の血で穢れる前に。



わたしの言葉を聞いたルカは瞼を閉じて俯くと、くつくつと低い声を漏らして小刻みに肩を揺らし、やがて天を仰いで笑った。寝台が軋みを立てて、わたしの体はシーツの波に呑まれる。ルカは一頻り笑ったあと息を吸い込んでわたしを見下ろすと、わたしの顎を長い指でとらえてそっと顔を寄せた。

「…気分が変わった」

ルカは言い終えると同時に、薄く開かれたわたしの唇にその唇を強引に押し付けて、乱暴に舌を割りいれた。歯列を舐め上げられては舌を蹂躙され、わたしは熱に浮かされたように彼の口付けを受け入れた。呼吸は荒くなり、寝台は軋みを上げる。彼はわたしの体の上に跨ったまま、羽織っていた黒衣を脱ぎ捨てて、わたしの腕を強引に寝台に押さえつけて、耳朶に熱い舌を絡める。わたしは荒くなる呼吸を整えながら、彼の頬に唇を寄せて、上擦った声でそっと呟いた。



(穢れてもいい、あなたと生きたい)

 

 




生きて穢れを乞う/20100420