『ルカ様との婚約は破談だ』

目を見開いたまま身動きひとつとれないわたしを見て、父親は縦皺の刻まれた眉間にさらに皺を寄せて小さくため息を吐くと、金糸の刺繍が施された上等な外套を翻して背を返した。「…お前には平和な場所で、幸せに生きて欲しいのだよ」疲れきった掠れた声で独り言のようにぽつりと呟いた父親は、あっけにとられて言葉を紡げずに立ち尽くすわたしを一人置いて、わたしの自室から出て行く。はっと気がついて父親の背中を追おうと部屋の扉に手をかけると、既に扉は外側から施錠されていた。どんなに力を込めても動かない扉に握り締めたこぶしを何度も叩きつけながら、「どうして」と何度も繰り返す。悲鳴のようなわたしの泣き声は、いくつもの夜を越えて、大理石の壁に反響し続けた。

 

頭からすっぽりと厚手のローブを被ったわたしは、バルコニーから庭先に向かって、部屋の毛布を全て結びつけたお手製のロープを手摺に何重にも巻きつけてしっかりと結んだ。闇夜は嵐に乱れ、強風に乗って叩きつけられる大粒の雨が開け放たれたバルコニーの扉を叩き、それはわたしの頬も同じように叩きつけている。 わたしは頬を滴る雨粒を拭って、結びつけた毛布の一端を庭に向かって投げ落とした。

家を出るなら次の嵐の夜と決めていた。装飾品は全て部屋の引き出しにまとめてしまってきたし、いつもはしっかりと手入れをしている髪も、邪魔にならないように後ろで括った。小さく深呼吸をして、わたしはバルコニーの手摺にそっと手をかける。わたしの決意は固かった。

(絶対、ルカのところに行くんだから)

父がどれだけ反対しようとも、ルカはわたしにとって最愛の恋人だ。この世界のどこを探したって、彼に代わるような異性は現れない。父もそうであったように、人は彼を狂ってしまったというけれども、その瞳の奥に光る一筋の柔らかな光をわたしは知っている。その柔らかな光を、傍らでずっと見守ると決めていたのだ。

気持ちを落ち着けようともう一度深呼吸をして手摺にかけた指先に力を込めた、その瞬間。背中のすぐ真後ろから、叩きつける豪雨の中でもはっきりと聞き取れる低い声がわたしの背筋をぞくりとなぞった。

「何をしている」

父親のものとは違う聞き覚えのある低い声に、わたしは手摺にかけた手を思わず止めて、びくりと肩を跳ね上がらせる。恐怖と驚きに、心臓の高鳴りが止まらず、 わたしは浅い呼吸を必死に落ち着けようと浅い呼吸を繰り返す。覚悟を決め、ごくりと固唾を飲んでゆっくりと背後を振り返ると、そこには、ずぶぬれになった外套に身を包んで、わたしを見下ろしている愛する男の姿があった。

「…、ル」

「ルカ…」わたしは手摺に指をかけたまま、震える声でルカの名前をもう一度、うわごとのように呟く。闇夜にその表情は伺えなかったが、その懐かしい眼差しが真っ直ぐにわたしに向けられているのがわかった。ルカはその唇の端をにやりと持ち上げると、獣が唸るような低い声でくつくつと笑った。

「ただでは転ばぬ女とは思っていたが」
「ど、どうしてここに…」
「こんなことになっているだろうと思ってな」

ルカは愉快げに目を細めてわたしを見下ろしている。わたしはしどろもどろになって視線を彷徨わせたあと、そっと目を伏せて、おそるおそる呟いた。

「…だって、」
「生まれ育った家と名前を捨て、一人の女になるか」

精一杯冒険者に変装したつもりのわたしの格好を一瞥して、ルカは皮肉っぽく尋ねる。わたしは体を覆うローブの裾を握り締めて、唇を噛んでルカを見上げていた。瞼に滲んだ涙を、大粒の雨が押し流していく。ルカは唇の端に笑みを浮かべたまま、艶のある低い声で続けた。

「自分でもわかっているのだろう?名を捨てたお前など、皇族にとって無価値も同然だと」

叩きつける豪雨よりも鋭く、彼の言葉はわたしの心に冷たく突き刺さる。唇をぎゅっと強く噛み締めて、込み上げる悔しさにわたしはぽろぽろと涙を零した。ルカはしばらく目を細めて静かにわたしの顔を見下ろしていたが、やがて一歩静かにわたしに歩み寄ると、わたしの表情を覆い隠していたローブを長い指で払いのける。そしてその指でわたしの顎を仰向かせると、静かにわたしの頬を指で撫でた。わたしは震える唇を精一杯動かして、言った。

「…ルカにとっては、わたしはただの決められた政略結婚の相手だったかも、しれないけど」

思わず声が上擦って、言葉に嗚咽が混じる。わたしは涙で重たくなった睫毛を伏せて深呼吸したあと、震える声でささやいた。

「…わたし、ルカのことが好きだったよ。…いまも、好きで、…好きで、…」

「… 大好きなの、」呟こうとしたその瞬間、ルカはわたしの手を掴んでバルコニーに押し付けると、ローブの下に隠れていた冒険者風の短い着丈のパンツから伸びるわたしの脚の隙間に長い脚を割り込ませて、わたしの唇をその唇で塞いだ。「ん、」思わず小さく吐息を漏らすと、ルカはわずかに呼吸を荒らげながら、わたしの唇にその舌を割りいれて、わたしの舌を探り当てる。舌先でくすぐっては絡め合うような初めての大人の口付けに、思わず小刻みに震えるわたしの体を、激しい舌使いとは裏腹なルカの体温が暖めていた。

ルカは一頻りわたしの唇を味わうと、鼻先をつけたまま、すぐにも唇が触れる距離でわたしの瞳を見下ろす。腰が抜けたようにぐったりとルカの膝に体重を預けたまま、荒くなった呼吸を繰り返すわたしにそっと目を細めると、ルカは低い声ではっきりと言い放った。

「俺は他人の指図に従ったことなど、一度たりともない」

彼の漆黒の髪を辿って、雨粒がぽたり、ぽたりとわたしのローブに染み込んでいく。わたしは涙と雨に濡れた睫毛をそっと持ち上げて、涙で潤んだ目でルカの鋭い瞳を見上げた。ルカは静かにわたしの瞳を見つめたまま、唇を動かした。

「ブタ共が何を喚こうが関係ない。俺の女はお前だ」

ルカの唇が言葉を紡いだその瞬間、辺り一面に轟音とつんざく様な雷鳴が響き渡った。思わず肩をびくんと跳ね上げてルカの胸に抱きついたその瞬間、目下に広が る庭から馬の嘶きが響き渡る。驚いて庭園を見下ろすと、そこにはルカの愛馬がいきり立ったように、蹄を鳴らしてバルコニーを仰いでいだ。突如として雷鳴に掻き消された言葉に自嘲するようにふっと笑うと、ルカは背を向けるわたしの体を軽々と抱き上げて、そのまま身を翻してバルコニーから飛び降りる。降りしきる豪雨と鳴り響く雷鳴が、屋敷を後にする二人の影を掻き消した。

 
 

 
たった一度のファーストラブ/20100514