「おう」 エプロンで手を拭きながら扉を開けたは、驚愕の表情を顔面に貼り付けたまま凍りついた。扉を開けた先に立っていたのは、先の戦の負傷により自室での療養を言い渡されているはずのシードの姿だった。シードは大きな手のひらをひらひらさせて悪戯っぽくニッと笑うと、丸い目をさらに丸く見開いて口をぱくぱくさせているに嬉しそうに目を細めて見せた。 「イイコにしてたか?」 シードはおどけて笑って見せたが、羽織った外套の下にはすぐ、包帯が巻かれた素肌が覗いていて、は開いた口を反射的に両手で覆った。元々がさつなところのある男だが、夜分とは言え、このような格好で出歩くなんて…ましてや、自室での療養を言い渡されているくらいの怪我なのに、ふらふらと好き勝手に外出するなんて!全くもって、この男のやる事なす事、常人には到底理解不能である。 「だってシード、療養中でしょ!?ダメだよ、勝手に出歩いたら」 いたずらを咎められた悪童のようにニッと笑うと、シードはきゃんきゃんと吼えたてるの横っ面を押しのけてずいと部屋に上がりこむ。人の気持ちもつゆ知らず、いつも通りのふてぶてしい態度を貫くシードには眉を寄せて唇を噛んだが、シードはお構いなしに揚々と歩を進めて、の私邸における彼の定位置である部屋の中央の腰掛けにどかっと腰を降ろし、満足げな表情で深い溜め息をひとつ吐いた。 「俺の部屋だろうがここだろうが、安静にしてりゃ一緒だろ」 玄関の扉を閉め、部屋の中に引き返してきたは、腰掛けにどっかりと腰を降ろしている青年を仁王立ちで見下ろすと、曲線的で優しい印象の眉を精一杯吊り上げて、そして精一杯の怒った口調で続けた。 「それは、それは、そうかもしれないけど…でも、ダメだよ!」 一体どこで覚えてきたのか、正論じみた説教文句を一丁前に捲くし立ててみせる彼女の声を右から左へと受け流しながら、シードは何気なく手を伸ばして彼女の膝の上でひらひらとゆれるスカートの裾を捉える。そして掴んだその裾を何気なくぺろりと捲ると、彼女の唇がぴたりと一瞬動きを止めた。 「ちょ…ダメだってば!」 シードの手癖に気づいたはかあっと頬を赤く染めると、反射的に後ずさり、裾を掴むシードの手をぺしっと殴りつけようとしたが、その刹那、シードの手が一瞬早く動いて の細い指先をぐっと掴んで制した。逃がすかよ、シードは唇の端を持ち上げてにやりと笑うと、掴んだその手を自分の膝元に弾みをつけて引き寄せた。小さな悲鳴と共に、自分よりも小柄な彼女の体はいともたやすく自分に委ねられ、途端、饒舌だった小さな桃色の唇は途端に噤まれて、子犬のような丸い目が驚きと不安に潤む。シードはを黙らせるにはこれが一番だとよく理解していた。 「お説教なら後だ。久々なんだ、もっと可愛い声聞かせろよ」 腰掛けにどっかりと腰を降ろした青年の膝の上に半身を乗り上げた状態で、少女は長い睫毛をぱちぱちと瞬かせてシードを見つめ返す。悪戯っぽく目を細め、からかうような視線で自分を見下ろすシードに、はしばらく思考を巡らせるように視線を彷徨わせていたが、やがて眉をハの字にして小さな唇をきゅっと引き結ぶと、抑えた声で呟くように漏らした。 「寂しかったけど、」 は悔しさと恥ずかしさの入り混じったような感情を目尻までいっぱいに湛えて、シードを見つめ返す。シードは意地悪な笑みを唇の端に浮かべたまま、「で?」と彼女の表情を観察しながら、掴んだ彼女の細い手首に言葉の続きを急くようにじり、と力を込めた。 「…さ、寂しかったよ!でも、」 言葉尻の『けど』や『でも』を嫌う青年は、彼女の唇が繰り返し紡いだ単語にわずかに眉根を寄せたが、とてそれを知らない筈もない。はしばらくしゅんと項垂れて考え込むような仕草を見せていたが、やがて恐る恐る顔を上げると、自分を見やるシードを上目遣いに見上げてそっと唇を動かした。 「…でも、シードは怪我してるのに、そんな勝手なこと言えない」 はあどけない少女のような面影を持った女だったが、いざ彼女の中の純粋な良心を目の当たりにすると、自分の中の穢れが洗い出されたような気分で居た堪れない。だがしかし、形振り構うつもりなどなかった。渇望したのは少女の愛の施しであり、その欲望が彼女が自分に抱く純情を凌駕するとしても、彼女の中に潜む一片の慕情を引きずり出したかったのだ。 の目が驚きにまあるく見開かれて、シードの膝に置かれた細い指がぴくりとこわばった。彼女の小さな唇がゆるりと丸く開かれるのを悪戯っぽく細めた瞳で見つめたまま、続けた。 「帰ったら、この家から出てきたお前を抱き上げて、キスすんだって」 一瞬血色を失ったように見えた少女の顔の、その愛くるしい目元が、柔らかな丸い頬が、小さな白い耳朶が、みるみるうちに赤くなっていく。膝の上におかれたの白くて小さな手が、わずかに動揺し、震えている。シードはその手に筋張った大きな手のひらを重ねながら、自嘲するように笑った。 「まあ結局待ちきれなくてこんな状態でさ。抱き上げらんねぇけど」 空いていたもう片方の手を伸ばして、赤く染まったの頬を指の腹で確かめるように撫でる。ふんわりと絹のように柔らかい肌の感触を指に感じながら、シードはなだめるような優しい口調で、掠れた声で囁いた。 「お前がいつもみてぇに笑って、俺の名前を呼んで、キスのひとつでもくれりゃ最高だ」 硝子玉のように透き通るの瞳が、先刻までと違う潤んだ光を湛えて、ゆっくりとシードを見つめる。穏やかな口調とは裏腹に、シードの手のひらは彼女の小さな白くたおやかな腕を撫でるように滑り、その柔らかく頼りない腰を導くように抱き寄せた。は困ったように一瞬眉をぴくりと寄せたが、やがてシードの手のひらが導くままに、彼の膝の上に跨る。そして、慣れない仕草でおずおずとシードの頬に触れた。シードは少女の手に無骨な手のひらを重ねると、唇の端に悪戯っぽい笑みを湛えて、からかうように囁いた。 「なんだよ。やっとその気になったか」 子供のように頬を膨らませて拗ねる彼女に、喉の奥からくくっと低い声で笑う。「愛してるぜ、」歯の浮くような台詞をさらりと言ってのければの頬はみるみる赤くなり、やり場のない気恥ずかしさにシードの肩口に顔を埋めて細い声で小さく唸った。この調子では、いつまで経っても恋人同士らしい甘い会話や、官能的な言葉のやりとりなど到底できそうもない。だが、それでもいい。彼女がいつまでもこうして、そのかけがえのない純情を自分に捧げていてくれるのなら。
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