ぼやけた視界に広がるのは、見慣れた自室の天井だった。そっと瞼を閉じ、軽く息を吸い込み、そっと吐き出す――と、「…くっ」鋭い痛みに思わず息が漏れた。呼吸に合わせて上下した胸にぼんやりと見えたのは、幾重にも巻かれた白い包帯だった。おもむろに周囲を見渡すと、部屋に人影はなく、薄暗い部屋にはのランプの明かりが灯る。時刻は恐らく真夜中だろう。

ティントの吸血鬼討伐作戦において負傷した俺は、作戦遂行後、デュナン城に戻され安静を言い渡されていた。傷自体はさほど深くはなかったが、傷口から魔物の毒が全身に回っていたらしい。城へ戻ってから、遠征の疲れも相まって、俺は随分長い事眠っていたようだ。

寝台に片肘を付き傷を負った上半身をゆっくりと起こすと、寝台に投げ出していた左腕に不意に何かが触れた。衣服やシーツの感触とは異なる、柔らかく温かい、滑らかな感触だった。薄い瞼を訝しげに伏せたマイクロトフは上体をもたげて寝台を覗き込み――そして、息を呑んだ。自分が眠っていた寝台の傍らで、シーツに鼻先を埋めるようにして小さく寝息を立てているの姿がそこにあった。

「、…ッ!」

反射的に強張った体に鋭く痛みが走り、思わず歯を食いしばる。しかし彼にとって、この状況は傷の疼きよりも遥かに大問題であった。真夜中に、年頃の娘が自分と同じ空間で寝息を立てている。それも、吐息が触れそうな程に近い距離で。

殿は、俺にとって近しい存在だった。元々女性と接するのは苦手だったが、彼女はいかなる時でも素直で健気で、他人に己の弱さを見せることもなく、年齢も体格も俺とは全く違えども、俺自身、難しく考えることもなく彼女には率直な意見を述べることができたし、彼女もまた同じように、いつも素直な言葉を俺にくれた。彼女が女性であることを忘れたつもりはないが、相手が殿であれば、女性の前でも自然体でいられる気がしていた。

――ただ。俺よりも一回りも二周りも小さい身体や、滑らかで白い肌、鈴が転がるような澄んだ笑い声、俺の名を呼ぶ甘く透き通る声、そして、花がほころぶような笑顔。近づけば近づくほど、彼女が俺とは違う生き物であることもまた、嫌というほど思い知らされてきた。そして、もし彼女を形作る全ての要素を受け入れてしまえば、俺の心がもう平静ではいられなくなることを、俺は知っていた。それなのに。

(…殿は)

年頃の娘だ。彼女は一体いつからここにいたのだろう。俺の目覚めを待ちくたびれて眠りに落ちてしまう程、長い時間をこの場所で過ごしたのだろうか。だとすれば、まずい。殿が女であるように、俺もまた男だ。眠っていたとはいえ、女性と自室で二人きりになることなど、あってはならないことだ。

突如として混乱し始める頭を落ち着けるように慌てて視線を動かすと、サイドテーブルに同僚が運び込んだ物と思しき陶磁器のコーヒーカップが、ソーサーの上で行儀良く佇んでいるのが見えた。一度決めたら意固地なだ。恐らく、ここに残ると言い張った彼女を見兼ねた俺の同僚が、彼女を気遣って部屋に運ばせたのだろう。もう随分長くこの部屋に留まっているに違いない。

殿…、」

彼女を起こそうと何気なく手を伸ばし――その肩に指先が触れようとしたところで、心臓がどくりと音を立て、反射的に手を引っ込めた。誰が咎めるでもないが、眠る彼女の身体に触れることに罪悪感を感じざるをえない。相手は女性だ。

(…参った)

しんと冷えた部屋の空気が、彼女の小さな寝息で穏やかに息づく。気持ちを整えるように小さく息を吸い込むと、俺は傍らで寝息を立てる彼女の寝顔に恐る恐る視線を落とした。間近で感じる彼女の小さな息遣いに、平静を装えども心臓の躍動は加速する。その姿は、俺のよく知る少女であり、俺の知らない女性でもある。真直ぐに見つめるほどに、吸い込まれそうなほどに、それは愛しい。

俺は肺深く一つ深呼吸をすると、気恥ずかしさから逃れるようにそっと目を閉じた。彼女が俺の傍らで俺を待ったように、俺も彼女の傍らで、彼女の目覚めを待つことにしようか。いつか必ず訪れる、花がほころぶような、春の目覚めを。


 

 
枕辺に花を/20120203