見目麗しい女性ならば慶次の周りにも星の数ほどいるけれども、巫女だといわれたあの女性は中でも一際美しかった。

慶次の太い腕に、筋張った手に触れ、逞しい肩に白い頬を寄せては幸せそうに目を細め、そして慶次もそれを咎めるでもなく盃を煽って豪快に笑う。華やかでよく似合う二人を見れば見るほど胸は苦しく、少しでも彼の目に止まれるようによそいきの小袖で着飾った自分がみじめに思えた。

これ以上仲睦まじい二人を見るのが苦しく、手元にあった徳利を手に取り、盃に注いで唇に流し込む。二杯。三杯。そして、人の背中に隠れるようにして、そっと宴会の席を後にした。







夜の帳の下りた部屋に、行灯の赤橙がぼんやりと輪郭を滲ませている。部屋に戻ってすぐに浴衣に着替えたわたしは、今は部屋の真ん中で一人、ぽつんと正座していた。心残りは何もない、もう眠るだけだと頭ではわかっているのに、妙に頭は冴え、何かが引っかかるように胸は苦しい。

(慶次、楽しそうだったなぁ)

慶次に惹かれ始めた頃から、覚悟はしていたつもりだった。慶次の人柄は、男も女もよく惹き付ける。直接聞いたことはないけれど、きっと派手に女遊びをしたこともあるだろう。それも慶次ほどの男なら、きっと遊び相手だって美人や、素敵な女性だったに違いない。実際に、遊んでいるところを見たことはないけれど。

(あの巫女様だって、とびきりの美人だったし…)

視線を落とせば、至って平凡な身体。顔だって、別段綺麗ではない。もしわたしにあの巫女様のような美貌か、豊満な肉体でもあれば、あんな風に堂々と慶次に甘えることができるのだろうか。しかし、想像したところでわたしはわたしで、考えるだけ虚しく、やるせない。

一つ小さく溜め息をつき、行灯の灯火を消そうと立ち上がった、その瞬間。ふと、部屋の障子を叩く音が静寂にはっきりと響いた。立ち上がりかけた体勢のまま硬直していると、床板がぎぃと軋む音と共に、障子の向こうに月明かりに照らされた大柄な影が見える。わたしは思わず息を飲み、目を見開いた。

(まさか、)

恐る恐る立ち上がり、障子に歩み寄る。息を止めて耳をすませば、障子一枚隔てた向こう側に確かに感じる息遣いがあった。頬に落ちた髪を耳にかきあげて一つ咳払いをすると、わたしは恐る恐る障子を開け、廊下に顔を出す。そしてそっと見上げると、そこには夜の闇でもよく目立つ、派手な身形の大男がわたしを見下ろすように立っていた。

「おう。まだ起きてたかい?」

その出で立ちを見れば、彼が宴会を抜けたその足でこの部屋を訪れたことがすぐにわかった。聞き慣れた低く太い声に、胸の奥が千切れそうにぎゅうっと痛む。思わず一瞬その場に立ち尽くしたけれども、わたしは慌てて廊下に一歩、足を踏み出した。

「どうしたの?急に」
「いやねぇ。今夜はあんたと飲み明かすつもりだったんだが、声を掛けそびれちまってね」

吹き抜ける夜風に、たてがみのような金髪がふわりと揺れる。慶次はその手に携えていた徳利をわたしの目の前に掲げると、悪戯っぽく目を細めて笑った。

「まだ起きてるようなら、一献付き合わねぇかい?」

わたしだけに向けられたその眼差しに、どきどきと鼓動は高鳴り、耳まで熱くなる。動揺を悟られないように、わたしはただ小さく、こくりと顎を引いた。







縁側にどっかりと胡坐をかいた彼の隣で、わたしは身を固くしてちんまりと正座していた。触れたいとあんなにも焦がれたはずなのに、いざ彼の隣に座ると、とてもじゃないけどそんな大胆なことはできそうもない。とびきりの美人にお酌をされているのを見た後ではなおさらだ。盃をくっと煽るたびに上下する喉仏に男を感じて、わたしは思わず俯いた。

慶次は盃に残った酒を飲み干すと、空になったそれに宴会から持ち出した徳利で酒を注ぎ、人懐っこい笑顔を浮かべて「飲みな」とわたしに差し出した。わたしはおずおずとその盃を受け取ると、恐る恐る唇をつける。慶次は膝に頬杖をつくと、満足気に目を細めてわたしを見下ろした。

「どうだい?」
「…うん。美味しい」
「だろう?これならお前さんも喜ぶと思ったのさ」

白い歯を見せて嬉しそうにニカッと笑うから、ますます照れ臭くなって視線を盃に落とす。慶次はわたしのすぐ傍らに筋張った男っぽい手を着き、もう片方の手のひらで下顎を撫でて満足気に笑った。受け取った盃に特別なものを感じて、大切なものに触れるように、そっと唇をつける。慶次はしばらく目を細めてわたしを見つめていたが、ふと僅かに目を丸くして眉を持ち上げると、何気なくわたしに尋ねた。

「…そういやあんた、なんで正座してんだい?」
「え、」

指摘されて、ぎくっと視線を膝に落とす。確かに、わたしの正座はこの状況にそぐわないかもしれない。…でも、わたしはいつも慶次の隣にどうやって座っていたのだろう。それすらもすぐに思い出せないほど、わたしの心は密かに動揺していた。

「あはは、ほんとだね」

動揺を悟られないように、あくまでもさりげなく、自然に――。ゆっくりと足を崩そうと、そっと傍らに手を伸ばしたその瞬間、ちょうど傍らに着かれていた慶次の分厚い手の甲にわたしの手が触れた。触れた指先から全身にかけて稲妻が走るような感覚に、わたしは思わず小さく肩を跳ね上げる。慶次はきょとんと目を丸くして、百面相しているわたしを見つめ返した。

?」
「ご、ご、ごめん!わざとじゃなくって…」

あっという間に正座に逆戻りして、しどろもどろに言葉を紡ぐわたしに小さく吹き出すと、慶次は夜空を仰いではっはっと腹の底から笑う。嬉しさと恥ずかしさがごっちゃになり、次の言葉にうまく繋がらない。慶次はそんなわたしの動揺さえも容易く吹き飛ばすような人懐っこい笑顔を浮かべると、あっけらかんと言い放った。

「まあ、わざとでも俺の方は一向に構わねぇさ」
「え?」

その眩いほどに明るい笑顔に、今度こそ卒倒しそうに顔が熱くなる。慶次は口元に笑みを残したままわたしの手から盃を取り上げると、残っていた酒を一口、喉に流し込む。そして、濃い睫毛を伏せてじっくりと舌で酒を味わったあと、おもむろに瞼を持ち上げて、わたしを見つめた。

「なぁ、
「うん?」
「さっきの小袖、よく似合ってたぜ」
「み、見てたの?」
「ああ、そりゃあ見たさ。随分色っぽかったからねぇ」

慶次の唇から零れ落ちたその言葉は、わたしの中でたちまち愛の矢となり、わたしの心の一番柔らかいところに、しっかりと、そして確実に突き刺さった。一気に全身が粟立つような気恥ずかしさに襲われ、わたしはとっさに目を逸らし、視線を伏せる。全身が心臓になったように鼓動はうるさく、耳朶は燃えるように熱い。自分の熱から逃げ出すように、わたしは彼に尋ねた。

「でも、あんなに綺麗な人が隣にいたのに」
「ん?…ああ、阿国さんのことかい」

慶次はわたしの言葉につり上がった太い眉を持ち上げると、ふっと表情を綻ばせて続けた。

「確かに阿国さんは別嬪だが、あの人は俺にとっちゃ、マブダチみてぇなもんさ」
「まぶだち?」
「旧知の仲ってやつでな。話せば長くなるが…」

そこまで言って言葉を切ると、唇の端に意味深な笑みを浮かべて、言った。

「…まぁ、お前さんが想像してるような疚しい関係じゃないぜ」

質問に対してさらりと図星を突かれたわたしは、もはやどつぼに嵌ってしまったようだ。真っ赤な顔で、何も言い返せずに唇を噤むわたしの隣で、慶次は余裕綽々とした様子で盃に残った最後の一滴を飲み終えると、満足気ににんまりと笑った。

「あんたを妬かせるとは、俺も悪だねぇ」
「…、そんなんじゃ」

潤んだ目で見上げると、濃い睫毛、立派な鼻筋、厚い唇。盃を持つ手も、ごつごつと筋張っていて、指も無骨で太い。月光に照らされたその姿は、見つめるだけで胸が一杯になってしまう。見つめるだけでこんなにも苦しい。

「はっは!そうかい、そうかい」

派手に笑い飛ばした慶次は、盃に残った酒をくっと喉に流し込む。そしてゆっくりと身体を起こすと、その大柄な身体を床の上に投げ出し、横向けに頬杖をついて床に寝転がった。廊下の床板が鈍く軋み、丸盆が小さく音を立てる。慶次は深く息を吸い込むと、満足気な笑顔と共に吐き出した。

「いい気分だねぇ」

闇夜にもよく目立つ長い金髪は、まるで犬や狼の尻尾のようだ。横寝で酒を煽りながら夜空を仰ぐ彼の睫毛の先を見つめ、わたしは思いを巡らせる。

(そうだ、)

綺麗なあの人のように、触れる勇気はないけれど。

「ね、慶次」
「ん?」
「…膝、使う?」

寝そべった彼の表情はここからは伺えなかったけれども、一瞬言葉に詰まったところを見れば、多少驚きもあったのかもしれない。慶次は廊下に寝そべった上体のまま頭だけ動かしてわたしを仰ぎ見ると、その口元にうっすらと笑みを浮かべ、尋ねた。

。あんた、酔ってんのかい?」
「酔ってるかな?」

わたしの返事に、慶次は片眉を持ち上げてわざとらしく「ううむ」と唸る。そして、破顔した。

「まぁ、折角だ。お言葉に甘えるかねぇ」

返す声色に、からかいと笑みが混じる。わたしが言葉を返そうと唇を動かした瞬間、慶次は僅かに上体を起こし、腕一本で体を引き起こすと、ゆっくりと身を屈めてわたしの膝の上にその頭を預けた。ずっしりと膝に預けられる重みと近づく距離に、言いかけた言葉を思わず呑み込む。鼓動は高鳴り、頬は熱い。それでも。

「ははぁ。こりゃ、癖になりそうだ」

満足気に笑う慶次の声が、触れ合った膝を通じて胸にくすぐったく響いて、思わずわたしも頬が緩む。僅かに酒の残った盃に、柔らかな三日月が照らし出されていた。

 

 

 
三日月の夜/20120419