自動消灯した携帯電話の液晶に、寝転がったわたしの冴えない顔が映りこむ。着信履歴は一週間前が最新で、センターに問い合わせたところで新着メールもない。受信BOXを開けば、毎日届くニュースメールに押し出され、彼からのメールも画面の随分下まで来てしまった。

携帯を握った手がぽすんとベッドに沈む。思わず漏らした溜め息の小ささに、自分の胸が随分と苦しくなっていたことを知る。壁にかかった時計の針は夜10時を指している。今日も何事もないまま一日が過ぎてしまうのだろう。

(城戸さん…どうかしたのかなぁ)

あの日、強引なナンパに腕を引かれるわたしを助け出してくれたのは、花を通じて知り合った城戸さんだった。極道の男で、喧嘩が強いという噂も花から聞いていた。けど、目の前で見た彼の強さは、素人のわたしが見ても圧倒的だった。わたしの腕を掴む男の腕を掴んでから、彼らが地面に突っ伏すまで、恐らく十秒足らず。あっという間にナンパしてきた男達を成敗してしまった。

その数日後、夕焼けに染まったニューセレナビルの屋上で手渡されたのは、一枚のメモだった。四つ折りされたそのメモを広げると、そこには『城戸武』の文字に電話番号が並んでいた。メモに落とした視線をおずおずと持ち上げると、城戸さんは視線を宙に逸らして煙草の煙をを浅く吸い込んで、少し癖のある掠れた声でわたしに言った。

“連絡もらえれば、いつでも駆けつけますんで”

 


瞼をぎゅっと瞑って枕に顔を埋めると、城戸さんとの思い出が脳裏に鮮やかに蘇る。夏の帰り道、飲みかけの缶コーヒー、遊園地のペアチケット。城戸さんの笑った顔が、さよならの時の後姿が、いつまでも頭の中をぐるぐると巡る。頭はぐるぐるとよく回り、わたしの瞼は重くなる。携帯を手に握り締めたまま、うとうととまどろんだ、その時。

“プルルルル、プルルルル…”

携帯電話に緑のLEDが灯り、静寂を切り裂くように携帯電話の着信音が鳴り響いた。掌中で突然鳴り響いた着信音に驚いて飛び起きると、わたしは恐る恐る指を解いて携帯電話の液晶を覗き込む。そして映し出された名前に、胸の中で凍り付いていた感情が一瞬にして溢れるように溶け出すのがわかった。

『着信中 城戸武』

一つ深呼吸すると、応答ボタンに指で触れ、受話口に耳を寄せて唇を開いた。

「…はい?」
『どうも、お久しぶりです。連絡できなくてすんません』

電話の向こうから届いた掠れた癖のある声に、強張っていた心の奥が少しずつ緩んでいくのを感じる。いつの間にか、彼の存在はわたしの心の奥深くまで膨れ上がっていたのだろう。
耳に届く城戸さんの声は、心なしかいつもより硬く聞こえた。声の向こうに聞こえたざわつきや雑踏の音は、外からかけてきているせいだろうか。電話の向こうの世界に思いを馳せながら、わたしは返事をした。

「ううん、平気です。気にしないでください」
『いえ、ずっと謝りたかったんです。今、家ですか?』
「うん、家にいます」
『そうですか』

言葉を切り、一瞬の考えるような沈黙のあと、城戸さんは言葉を続けた。

『少し、話したいことがあるんです。今から会えますか?』
「え?大丈夫です…けど、どこで?」
『あー…、そうですね。俺、そっち行きます』
「え、でも…」
『こんな時間ですし、危ない目、遭わせたくないんで』

わたしの迷いを遮るようなその言葉に、胸がぎゅっと痛み、頬が熱を持つ。電話の向こうの彼は、きっといつものように眉を顰めた険しい表情で、わたしのことを心配してくれているのだろう。大通りに出たのか、行き交う車の音や雑音が強くなる。耳を済ませて彼の気配を探ると、城戸さんは再び言葉を続けた。

『じゃあ、15分後にちゃんちの下で待ち合わせでいいですか?』
「うん、わかりました。気をつけて来てくださいね」
『はい。じゃあ、また15分後に』

城戸さんの声が受話口から遠ざかり、耳元でざわついていた雑音もぷつりと切れた。ベッドの上、飛び起きた体勢のまま正座していたわたしは、携帯電話を置いて壁の時計を見上げる。あと15分。久しぶりの城戸さんは、どんな顔で、どんな表情でやって来るのだろう。少し強張った電話越しの声。それに、話したいことって一体何だろう。期待と不安を胸に押し込んで、わたしはベッドから降りて鏡台に向かった。

 


閉じたエレベーターのガラスに、緊張した面持ちのわたしの表情が映る。跳ねた毛先を指先でちょいちょいと引っ張って直していると、あっという間に1階に到着した。エレベーターホールを出て、少し重たいエントランスの扉を開けると、熱を持った頬に秋の冷たい風が触れた。部屋の鍵を部屋のポケットにしまいこんでエントランスを出ると、城戸さんの姿を探して辺りをきょろきょろと見回す。と、わたしのすぐ隣で、ざっと靴が地面を蹴る音が響いた。

ちゃん」
「あ、」

聞き覚えのあるわたしを呼ぶ声に顔を上げると、そこには黒いスラックスのポケットに手を突っ込んだ城戸さんが立っていた。夜の薄闇の中でも、彼の赤いスカジャンはよく目立つ。わたしに歩み寄った城戸さんの表情を街灯の明かりが照らし、長い睫毛がその頬に薄く影を落とす。城戸さんはポケットから手を抜くと、わたしに真直ぐに向き直った。

「夜分遅くにすんません」
「ううん。びっくりしたけど、嬉しいです」

にっこりと笑みを作って見上げると、城戸さんは少し困ったように眉を寄せて目を細めた。少し伸びた自分の襟足を大きな掌で撫で…そして小さく咳払いすると、もう一度わたしに向き直る。そして、言葉を続けた。

「急で申し訳ないんすけど、…実は、少し話があって」
「うん。…でも、わたしに?」
「はい」

城戸さんは少し固い表情で頷くと、少し周囲の気配に視線を配る。そして少し考えるように黙ったあと、再びわたしに視線を戻して、言葉を続けた。

「…ここで話すのも何なんで、ちょっと歩きませんか?」

“いつもの道、”と、城戸さんはわたしが帰宅する時に通る道を顎で指す。わたしは嬉しさと不安のいりまじった複雑な気持ちを胸に感じながら、そっと頷いた。

 

 

「ずっと連絡できなくて、すんません」
「ううん」

歩き出した彼の第一声がそれだった。アスファルトを革靴の踵が蹴りだす音が、こつん、こつんと辺りに響く。それよりも幾分か小さなミュールの足音をその隣に響かせながら、わたしは首を横に振った。

「きっと忙しいんだと思ってましたし」
「すんません。メールも、さっきやっと読めたとこで」
「そんなの全然いいんです。それより…そんなに忙しいのに、ここにいて平気ですか?」

見上げた城戸さんは、ポケットに手を突っ込んだまま、難しい表情で遠くを見つめていた。その厳しい横顔は、いつもの優しい城戸さんであり、そして極道の世界に生きる城戸さんなんだろう。城戸さんは少し考え込むように黙ったあと、ゆっくりとわたしに視線を降ろして、難しい表情のまま「…そのことなんですが、」と唇を動かした。

「…俺、多分しばらく会えないんです」
「え…」

思いがけない言葉が、浮かれていた心臓を貫く。え…、と口にしたまま、わたしの唇は言葉を紡げなかった。

「実は、組でちょっとトラブルがあって」

城戸さんは難しい表情のまま、小さく息を吸い込んだ。

「俺、どうしてもやらなきゃいけないことがあって。…それが、いつ終わるかもわかんないですし、そもそもうちの組自体もどうなるかわかんないところで」

いつもわたしには組の話をしない城戸さんがこう言うのだから、よほど大変なことになっているのだろう。少しずつ強張っていく掠れた声と顰めた表情に、彼がこの数日間で一体何を目にしてきたのか、想像するだけで胸が苦しくなる。城戸さんは一度言葉を切って目を閉じると、小さく深呼吸する。そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「…だから、色々片付くまで、当分会えないと思います」

城戸さんの掠れた声が、顰めた表情が、わたしの胸をちくちくと突き刺す。でもそれ以上に、城戸さん自身の身に起きていることのほうが苦しくて、わたしは冷えた指先をぎゅっと握り締める。泣くつもりなんてなかったし、泣きたいのは城戸さんの方だと頭ではわかっているのに、目と鼻の奥が途端に熱を持つのがわかる。必死にその熱をおさえようと唇を噛んでいたら、わたしを見下ろしていた城戸さんの表情が、少しだけ色を変えた。

「わたし…ごめんなさい。城戸さんが大変なこと、知らなくて」
「いや…俺も、ちゃんに言うべきか迷ってて、遅くなって…」

言葉にしたら途端に悲しくなってきて、目の縁までいっぱいに涙が込み上げてくる。城戸さんが大変な目に遭っているのが苦しいのか、城戸さんと会えなくなるのが悲しいのか、その両方だろうか。零さないように必死に瞬きを我慢していたら、城戸さんの表情からほんの少し、険しさが薄らぐ。そして、驚いたように目を見開いたかと思うと、困ったように眉を寄せた。

ちゃん…」
「わ、わたし…できることがあれば…」

言葉が震えてしまうのは、唇が震えているせいだろうか。視界が涙でぼやけて、城戸さんの表情がよく見えない。涙を零さないようにそっと瞬きをした瞬間、こらえきれなくなった涙が閉じた睫毛を伝って頬を転がり落ちた。
わたしの視界をぼかしていた涙が溢れ出して、視界が再び鮮明になる。ゆっくりと睫毛を持ち上げると、城戸さんは困ったような表情でわたしを見下ろしていた。そして、視線は逸らさずに、言葉を続けた。

「泣かないで下さい。…俺、会えなくなる前に、最後にもう一度、ちゃんの笑った顔見ときたくて」
「わたしの…?」
「そう。あと、言っておきたいこともあったんで」

涙で重たくなった睫毛を一度伏せて、もう一度開いたその時、城戸さんの革靴の爪先がぴたりと止まった。「言っておきたいこと…」つられるようにわたしも足を止めて、城戸さんを見上げる。と、次の瞬間、城戸さんはわたしを包み込むように、両腕で力強く抱きしめた。心臓が止まるかと思うほど鼓動が早く打ち、抱きしめる腕の強さに身じろぐことすらできない。ぴったりと耳をつけた胸から、城戸さんの鼓動が伝わってくる。その音は、きっとわたしと同じくらい、どくどくと激しく音を立てていた。

ちゃん。…俺、ちゃんが好きです」
「え…っ」

触れ合った体からも伝わる低く掠れた声に、体全身がかあっと熱くなる。わたしを抱きしめる城戸さんの腕の力強さと温もりに、これが冗談ではないことを思い知る。驚きと喜びで胸がいっぱいになって、言葉が出てこない。彼の腕に応えるようにそっと胸に頬を寄せると、城戸さんがわたしを抱く力が少しだけ強くなり――そして、ふっと緩んだ。城戸さんはゆっくりと腕を解いてわたしを解放すると、少し困ったような、照れたような、複雑な表情を浮かべてわたしを見下ろして、そっと口を開いた。

「変なことしてすんません。…いつになるかわからないですけど、色々片付いたら、返事、聞きに来ます」
「うん…」

ぎこちなく頷いて視線を落とすと、城戸さんは照れ臭そうな表情で、少しだけ笑った。

右隣で、革靴の爪先がゆっくり前を向く。この散歩が終わってしまったら、もうしばらくは会えなくなる。何となく重い足取りでわたしも前を向いたその時、不意に右手をぎゅっと引き寄せられた。驚いて視線を持ち上げると、わたしの手は、城戸さんの大きくてごつごつした手にしっかりと包まれていた。「き、城戸さん?」思わず顔を赤らめるわたしに、城戸さんは照れ隠しのように前を向いたまま、言った。

「…最後に、マンション戻るまでの間だけ、彼氏面させてもらっていいですか?」
「え…?」
「…手、繋ぎたかったんです。ずっと」

城戸さんがすごく緊張して、照れているのが伝わってきて、わたしも思わず恥ずかしくなってきて、言葉を呑んでこくりと頷いた。わたしのマンションに向かう道、もう何度繰り返し歩いたか数え切れないこの道。繋いだ右手のせいか、初めて歩く道のようにどきどきと鼓動は高鳴り、視線も上げられない。乾いたアスファルトに、ぎこちなく手を繋いだわたし達の影が長く伸びた。
 

 

 
天の川/20120731