明日のデートに備えて早く寝ようと浮かれ気分でお風呂を出たところで、携帯電話の呼び出し音が部屋に鳴り響いた。突然の恋人からの着信に、期待半分、不安半分で電話に出ると、電話の向こうで響いたのは恋人の城戸さんの声ではなく、彼が兄貴と呼び慕う新井さんの声だった。





 

「よいしょ、っと…」

城戸さんは細身だけれども、骨太で筋肉質なのでその体はずっしりと重い。わたしは城戸さんの赤いスカジャンの脇腹にもぐりこむようにしてその体に腕を回して、新井さんのように城戸さんに肩を貸そうとしたけれども、そうするにはあまりにも体格が違いすぎた。支えるつもりが、逆に城戸さんの脇腹にくっついているだけのようにも感じる。けれども、何の支えもないよりはマシだろう。

玄関のドアを閉めて、部屋の電気をつける。深夜1時の瞳には眩しい蛍光灯の明かりに、黒を基調としたシンプルな家具や、壁のポスターが無機質に照らし出される。けだるい動作で革靴を脱いだ城戸さんにまた肩を貸すと、部屋の奥にあるシングルベッドに向かって彼を引っ張った。

『城戸が散々飲まされて酔い潰れているから、外せない自分の代わりに面倒を見てほしい』新井さんからの電話の用件はこうだった。新井さんが手配してくれた送迎タクシーに乗り込んで神室地下街のバーに向かうと、そこにはソファにぐったりと腰を降ろしている城戸さんの姿があった。新井さんの手を借りて城戸さんとタクシーに乗り込んだわたしは、新井さんがしていたのを見よう見まねで城戸さんの体を支えながら、彼を部屋まで運んできた。

「城戸さん、着いたよ」
「…、ん」

城戸さんのベッドの前に立つと、わたしはその肩から肩を抜いて、彼が羽織っているスカジャンの胸元に手を伸ばす。朦朧とした表情で床を見下ろす彼を見上げながら、手を伸ばしてその襟元にそっと指先で触れた。
しかしその瞬間、わたしの体は手を伸ばした体勢のまま、城戸さんの腕に力強く抱きしめられた。ぎゅっと力を込めて耳元に顔を埋められれば、わたしの頬は城戸さんの体温に追いつきそうなほど簡単に熱くなる。彼のワイシャツに染み付いた酒と煙草の匂いを鼻先に感じながら、わたしは自分を抱きしめる彼のスカジャンの背中を少し引っ張って声をかけた。

「き、城戸さん…あのー…」
「…武で」
「えっ…た、武…くん?」

耳元に響く掠れた低い声は、酒のせいか少し甘えた響きもあって、わたしは思わず動揺してしまう。たどたどしく彼の名前を呼ぶと、わたしを抱きしめる彼の腕の力がふっと柔らかく緩んだ。腕にできた隙間からそっと彼の表情を覗き込もうとしたその瞬間、城戸さんは身を屈めて腕を入れてわたしの体を持ち上げると、そのままベッドの上にわたしを放り込む。彼のベッドのスプリングが軋んでわたしの体が押し上げられる前に、城戸さんはわたしの体に覆いかぶさるようにベッドに倒れこんだ。

「き…、じゃなくて、た、武くん!」
「…あのさ、

彼の掠れた声にあわせて喉仏が上下し、その逞しい首に下がるシルバーのネックレスも蛍光灯の明かりを反射して鈍く輝く。酔っているせいなのか、初めて彼の唇が呼び捨てたわたしの名前の響きに胸の奥が照れ臭くてむずがゆい。城戸さんは挑発するようにわたしの鼻先にその鼻先を近づけると、鋭い目を細めてわたしに尋ねた。

「男の部屋に来るって、どういう意味かわかってる?」
「え…あの」
「それとも、俺なら大丈夫だとでも思った?」

初めて目にする城戸さんのその表情の、その鋭く細めた目の奥は――もはや完全に据わっていた。彼のベッドでその鍛えられた体躯の下に組み敷かれているという危険信号とは別のところで、(あぁ、城戸さんは酔うとこうなるんだ…)と他人事のようにも思っているわたしもいる。ベッドのスプリングが軋み、城戸さんのずっしりと重い体がわたしの体にさらに近づく。城戸さんは互いの鼻先が掠めるほどの距離のまま、更に言葉を続けた。

「俺だって、男なんだよ」

囁くような掠れた声と、男っぽい色気のある表情に、鼓動は高鳴る。酔っているとはいえ、一体今の彼の言葉のどこまでが本音なんだろうか。いっそ、ここまで堂々としているのなら、本当はこちらが彼の本心のようにすら感じてくる。必死に頭を回転させて彼に返す言葉を考えていると、城戸さんはわたしの首筋に顔を埋めてきた。髪に残るワックスの香りが、煙草の匂いの中にほのかに香った。

「あー…喰っちゃいてぇな」
「え、ええ…!?」

耳を疑うような衝撃的な言葉に思わず身じろぐと、ちょうど腿のあたりに何か硬いものが触れているのに気付いた。恐る恐る視線を彼の下半身に向け…そしてその正体を確認すると、わたしは息を呑み、反射的に目を逸らした。
城戸さんの言うとおり、城戸さんだって男だ。こういう状況下になれば、こういうことにもなるだろう。相手が城戸さんなら、その時がくれば、自分を捧げていいと思っていた。だから、後悔はないけれども。

「あのね…き、武くん、わたし…」
「…マジで、可愛い…」
「え…?」
「…もうすげぇ可愛いし…、俺、ずっと、好きで…」

先程までとは打って代わり、今度は耳元でうわごとのような掠れた呟きが響く。突如として鋭さを失ったその声に、おそるおそる首元に顔を埋めた彼の表情を覗き込むと、その瞼は伏せられ、唇はわたしの首筋に触れたまま、呟く言葉に合わせて僅かに動いていた。

「あの、武くん?」
「ん、…す……」
「………」
「………」

(…えっ)

体に感じる体重がずっしりと重くなり、彼の体から力が抜ける。首筋にかかる吐息は徐々に規則的になり、穏やかになり、やがて寝息に変わった。

(ね、寝ちゃった…)

 

 

 

 

 

ずきん、と重い痛みをこめかみに感じて顔を顰めると、俺の視界に白い光が差し込んできた。昨晩は、新井の兄貴と舎弟数人とで神室地下街の店で飲んでいたはずだが、その後の記憶がすっぽりと抜けている。ただ、記憶はないが、どうにか部屋に戻ってきていたらしい。一体何がどうしてこうなったのかは全く記憶がないが。

(はぁ…、まぁ、無事ならいいか)

再びこめかみに感じるずきん、という痛みに手で額に触れようとして――そこで俺の意識は急速に覚醒した。

(え…!?)

見慣れた俺のベッドで、俺の傍らで小さく寝息を立てているのは、他でもないの姿だった。
運命的な一目惚れから、玉砕覚悟で必死にアプローチし、決死の覚悟で告白して、やっと手に入れた彼女。恋人になってからも心底入れ込んで、あれだけ大切にしようと心に誓ったのに、こんなにも容易く、同じベッドの中で寝息を立てている。そして俺の記憶はない。

(ま、まさか…酔った勢いで…呼んで…抱いた!?)

一瞬にして血の気が引く。絶対に大切にすると誓ったのに、酒に飲まれ、手を出してしまったのか。柄にもなく震える手で彼女の肩を覆っている布団に手をかけて、捲りあげると…そこには、いつもの部屋着に身を包んだ彼女がいた。ふと我に返って自分の格好を見下ろせば、俺も昨日家を出たときと同じ格好で、上着まできっちり着込んだままだ。恐らく、この様子なら、恐れていた最悪の事態はないだろう。一気に肩の力が抜けて、俺は小さく溜め息をついた。

「…うん…武くん?おはよう…」
「お、おお…おはよ」

布団を捲った時に起こしてしまったか、隣で眠っていたは眠たげな目をごしごしと擦りながら瞼を持ち上げると、寝返りを打って俺を見上げた。朝日の中で初めて見る寝顔は、子供みたいで正直すげぇ可愛い。

ちゃん、何でここに?」
「え…あのね、武くんが酔ってるから面倒見てくれって、新井さんが…」

寝起きで少し掠れたの言葉に耳を傾けながら、昨夜の新井さんの様子を必死に思い出す。――思い出せないが、とにかく後で連絡を入れよう。新井さんにはいつも迷惑かけてばかりだ。そしての言葉に耳を傾けながら、俺はこの違和感の理由を考える。そして考えるまでもなく、すぐに正解に行き着く。

「あの。その、武くんって…」

問いかけると、は僅かに頬を赤らめ、困ったように視線を彷徨わせる。そして恐る恐る俺を見上げると、そっと唇を開いた。

「あのね…昨日の夜、武くんが『武って呼んで』って言ってて、それで…」
「あー、そうなんだ…」

全く記憶がない。記憶はないが、その光景を想像するだけで壮絶な恥ずかしさが込み上げてくる。タチが悪いのは、実際俺が、内心でそう呼んでくれたらと思っていたから。今までかっこつけて必死に隠してきたものが、酒で酔って箍が外れて溢れてしまったのだろうか。内心この場で消えてしまいたいほど恥ずかしさを感じながら、俺は小さく深呼吸した。

「ごめんね。今まで通り、城戸さんって呼んだ方がいいなら、戻すし…」
「いや…そのままで」

後悔しながらも、その申し出は即座に否定しておく。正直、照れ臭いし消えてしまいたい半面、彼女の声が『武』と俺を呼ぶたびに、胸の奥がくすぐったくて、本当にの彼氏になったのだと実感が沸いてきて妙に誇らしい。照れ隠しにワックスの感触の残る頭を掻くと、照れ臭そうに布団に顔を半分埋めているに問いかけた。

「つーか俺、大丈夫だった?変なことしてない?」
「えっ…」

問いかけた瞬間、彼女の表情が硬直し…そしてみるみるその頬が赤くなる。
「えっ…」その反応に、俺の血の気が再び引いていく。今までに見た事がない、のこの表情は何だ。俺は一体彼女に何をしたというのだろうか。

「えっと…武くん、わたしのこと、って呼んでたよ」
「あー…」

わかっていたことだが、やはり記憶はない。記憶はないが、壮絶に恥ずかしい。これもやはり、自分が内心、彼女の名前につけた『ちゃん』をずっと外したいと望んでいたことだったから。酔っていたせいだろうと彼女が勘違いしているのが、かえって心苦しい。

は頬を赤く染めて目を潤ませながら俺をじっと見つめていたが、やがて恥ずかしそうに鼻先まで布団に埋めると、押し殺したような小さな声で言葉を続けた。

 

「…でも、嬉しかった。呼び捨てって」
「え?」
「…わたし、本当に武くんの彼女になったんだっていう気がしたの」

「………」

胸に一発、見事に風穴が開いた。完全に撃ち抜かれてしまった。防ぐ暇もなく、いとも容易く。

は鼻まですっぽり顔を布団に埋めたまま、恥ずかしそうに視線を泳がせている。俺は目を逸らすこともできず、布団に包まった彼女を見下ろして、その脇にそっと手をついた。朝日に照らされていたその滑らかな頬に、俺の体が影を落とす。困ったような、驚いたような表情で俺を見上げるをじっと見つめたまま、俺は唇を開いた。

「…あのさ。シャワーしてくるから、出たら今の話の続き、聞かせて」
「え…」

長い睫毛に縁取られたその目が丸く見開かれた瞬間、俺は毛布ごと彼女の体を抱きしめた。驚かせないように、怖がらせないように、そっと、できるだけ優しく。毛布越しでも彼女の体の小ささや温もりを感じて、胸は熱くなり、鼓動が高鳴る。そして身を竦めてじっとしている彼女をもう一度見つめると、毛布にくるまれたその鼻先に自分の鼻先を寄せた。

「…、」

右手を伸ばし、彼女の顔を覆い隠していた毛布をそっと顎下までずらして頬に触れる。ずっと触れてみたかったその頬の感触は、柔らかく滑らかで、溶けてしまいそうに熱い。驚いたように薄く開かれた形のその唇は、どれだけ熱いのだろうか。知りたい気持ちはもう抑えることができない。

ゆっくりと身を屈めて鼻先を寄せると、その小さく柔らかそうな唇に、掠めるようにほんの少しだけ、唇で触れた。のくるんとした睫毛が一瞬ぴくっと弾み――そして、ゆっくりと伏せられる。時間にすれば一秒もないキスに、怖いほどに自分の心が震えているのがわかった。

うっすらと紅潮した彼女の白い頬に、俺の影が落ちる。潤んだ彼女の黒い瞳の中で、俺のネックレスのシルバーが朝日を反射して白く光った。


 

 

 
白と黒の世界で/20120809