「…!!」

一秒前まで夢の中にいたはずなのに、ずっと起きていたかのように頭は覚醒していた。濡れた睫毛を瞬かせれば、視界には見慣れたわたしの部屋の天井が見える。ゆっくりと目を閉じて深呼吸すると、先程まで見ていた恐ろしい夢の光景が鮮明に映し出された。こんなに怖い夢を見たのは久しぶりだ。

目を閉じたまま深呼吸をすると、不意に隣のテーブルの上で、カタンと物音が響く。おもむろに瞼を持ち上げて視線を動かすと、テラスから射し込む月明かりに照らし出された真島さんの横顔が見えた。僅かに開いた窓の隙間から流れ込む初夏の風に、彼の煙草の煙が薄く棚引いている。窓の外を見つめる彼に気取られないように、そっとブランケットを手繰り寄せようとしたその時、しんと静まった空気が僅かに揺れた。

「…なんや、えらいうなされとったな」

こちらに向いているのは眼帯をした左目のはずなのに、まるでわたしの全てを見透かしているように彼は言う。睫毛を濡らす涙の雫を手の甲でぐしぐしと拭うと、わたしはもう一度瞼を閉じて、小さく深呼吸する。生ぬるい風が、わたしの頬をゆるやかに撫でていった。

「…怖い夢、見たんです」

真島さんは視線を窓の外に向けたまま、手袋に包まれた長い指で咥えていた煙草を唇から抜き取る。そして唇の端を僅かに持ち上げると、軽く鼻で笑い、嘲るように吐き捨てた。

「ええ歳こいて、ガキみたいなやっちゃ」

からかうようなその声色が悔しくて、わたしは眉間にむっと力を込めると、もぞもぞと寝返りを打って真島さんに背を向ける。ヒヒヒ、という意地の悪い笑い声を背中に受け止めながら、逃れるようにぎゅっと目を瞑った。
少しずつ瞼から力を抜いて緊張を緩め、眠ることに意識を集中させる。しかし、すぐに先程の夢の光景が蘇り、脳はやけに覚醒し、心臓の音はどくどくと耳にうるさい。もう寝てしまいたい。でも、夢の記憶が眠らせてくれない。
頭をぐるぐると回転させながらぎゅっと目を瞑っていると、不意に背後の気配が動いた。真島さんはテーブルの上の灰皿に煙草をぐっと押し付けて深く息を吐くと、その唇を開いた。

「よっしゃ、
「…はい?」
「ワシ、抱いたるわ」

耳を疑うような発言に思わず眉根を寄せて、ゆっくりと背後を振り返る。すると、そこにはこちらに向き直って胡坐をかき、目を細めてこちらを見下ろしている真島さんがいた。窓から差し込む月明かりが、にんまりと愉しげな笑みを湛えた鋭い顔を妖しく照らし出す。わたしは真島さんの表情を覗き込んで、おそるおそる尋ねた。

「あの…何言ってるんですか?」
「ちょお待て、何やその顔。誤解や」

真島さんは心外だと言わんばかりに大袈裟に眉根を寄せると、大きな手のひらでその膝をぽんぽん、と叩く。そしてわたしを見下ろしたまま、いつもより少しだけ柔らかい口調で促した。

「ほれ、こっちや」
「えー…」

しばらく布団の中で躊躇していたけれども、真島さんの方は一向に諦める様子もない。わたしは小さく溜め息を吐くと、身をよじってもぞもぞと体を起こした。刹那、真島さんは口元にニヤリと笑みを浮かべ、長い腕でぐっとわたしの手首を引き寄せて胡坐をかいたその膝の上にわたしの体を抱き込む。抵抗する間もなくされるがままに抱き寄せられると、蛇柄のジャケットから覗く裸の胸がわたしの頬に触れた。

「どや、案外ええもんやろ」

頭を優しく抱き寄せられれば、わたしの唇が彼の胸の刺青に触れる。睫毛のすぐ先にある派手な紋々と、唇に感じる真島さんの素肌の感触に思わず息を呑むと、少し癖のある低い声がわたしの耳に降った。

「ここにおったら怖いモンなしやで」

わたしの頭を撫でた真島さんの手の感触は優しく、その表情を見たら蕩けてしまいそうで、わたしは身をじっと硬くして俯く。真島さんは喉を鳴らしてヒッヒッと掠れた声で笑うと、わざとらしく太い声で唸った。

「鬼の真島のお膝元や」

得意げに言い放つ真島さんの声を頭上遠くに聞きながら目を閉じれば、真島さんの素肌の感触が動揺した胸を少しずつ落ち着けてくれる。わずかに身じろいでその胸にそっと額を押し付けると、真島さんはわたしの髪をそっと撫でながら、「ほ〜れ、」とわざとらしい猫なで声で付け足した。

「よう眠りや、かわい子チャン」
「………」

もはや完全にからかわれている。わかっているから、少し悔しい。悔しいけれども、真島さんの腕の中にいると不思議と恐怖が薄れ、緊張も解れていく。抱き寄せるその腕に恐る恐る体を委ねると、わたしはそっと彼に尋ねた。

「…真島さんは、眠らないんですか?」
「あぁ…ワシはええ」

わたしをあやすように撫でながら、真島さんは短く答える。その手は恋人のそれというよりも幼い頃に感じた母親の手の感触に似て心地よく、わたしはそのひんやりと冷たい黒皮の温もりに目を閉じる。小さく深呼吸をすると、途端に眠気が瞼に降りてきた。

細く開いた窓の隙間から初夏の風が流れ込み、わたしと真島さんの体をゆっくりと冷やす。心地よいまどろみの中で、真島さんの掠れた呟きが意識の遥か遠くで、ぼんやりと聞こえた。

「…よう眠られへんのは、ワシの方や」

その言葉に問い返そうとしたわたしの声は、唇まで届かずにまどろみに落ちた。うとうととその胸にもたれかかると、真島さんはゆっくりと身を屈めてわたしの額に高い鼻筋をそっと寄せる。心地よく薄れゆく意識の中で、熱くなった瞼に冷たく柔らかなキスを感じた。


 

 

 
夜の温度/20120813