この部屋から一歩外に出れば、“真島さん”は“真島組長”に戻る。尖った蛇革の靴に爪先を入れる背中を見下ろして、わたしはぼんやりと考える。刈り上げた後ろ髪や白いうなじに、胸の奥が切なく焦がれる。おもむろな動作で立ち上がった彼は、右肩で少しだけわたしを振り返った。

「ほな、戸締り気ぃつけや」

つり上がった右目でゆっくりとわたしを見下ろし、端正な唇で言葉を紡ぐ。自分よりずっと背の高い彼を見上げて、わたしは少しだけ微笑んだ。手を伸ばせばすぐに手を伸ばせる距離に、真島さんは立っている。ニコニコと笑いながら見上げていると、真島さんは訝しげに眉を持ち上げて、わたしに向き直って尋ねた。

「何や」
「ふふ」

どうせしばらくは“真島組長”でいるのだから、せめて最後の一瞬だけでも“真島さん”を感じたい。会えない日々も幸せに感じられるほどに鮮やかで甘い記憶がほしい。

わたしは真島さんと向き合ったまま身構えると、勢いよく腕を伸ばしてその首にぎゅっとしがみついた。「お!?」声を上げて一瞬よろめいたあと、真島さんは長い腕でわたしの背中を抱きとめる。わたしは真島さんの首筋に鼻先をすり寄せて肺深くまで息を吸い込む。さらさらした黒髪がわたしの頬を撫で、かすかに感じる素肌の匂いに胸の奥がじわりと熱くなる。

時間にすれば一瞬かもしれない。けれども、その一瞬がわたしの記憶には甘すぎるほどに永い。そっと身をよじって爪先から廊下に着地して見上げれば、真島さんは訝しげな表情でわたしを見下ろしていた。

「何やねん、急に」
「えへへ。ちょっと、挨拶です」
「挨拶ぅ?」

真島さんは大袈裟に顔を顰めると、両手をひらひらさせて「そら、ちゃうやろ」と大きな溜め息と共に吐き出す。馬鹿にするようなその反応に驚き、思わず目をぱちぱちと瞬かせると、真島さんはおもむろに身を屈めてわたしの顔を覗き込んだ。

「…しゃあないし、教えたるわ」

抑えた低い声で囁かれて、わたしはぴくりと肩を跳ね上げ、目を大きく見開く。その瞬間、黒皮の手袋に包まれた長い指がわたしの顔面に伸びると、反射的に逃れようとしたわたしの顎を捕らえた。されるがままに彼を見上げさせられたわたしの目に、唇の片端を持ち上げた真島さんの端正な顔が映りこんだ。

驚いて小さく息を呑んだわたしの唇を、真島さんの唇が追いかけるように塞いだ。触れるような口付けから、角度を変えてより深く唇が合わせられる。思わず身じろぐわたしの顎を長い指がとらえて逃がさない。呼吸もできないほどに深く唇を求められ、思わず吐息を漏らすと、真島さんはゆっくりとわたしの唇から唇を離した。

肩で息をしながら真島さんを見上げると、真島さんは唇の端ににやりと意地の悪い笑みを浮かべる。そしてわたしの顎を長い指でしっかりと捕らえたまま、鼻先がわずかに触れ合う距離で、からかうように囁いた。

「これが“大人の挨拶”や」

真島さんの黒皮の手袋に包まれた長い指が、わたしの顎を撫でるようにするりと滑り落ちる。熱に浮かされたようにぼんやりと見上げると、わたしの顎を撫でたその手をひらひらと振って、真島さんはわたしに背を向けた。

ドアの向こうで真島さんが真島組長に戻っても、わたしの唇に残された真島さんの熱は一向に元に戻ることはなかった。
 


 

 

 
残された熱/20120819