夜11時。住宅街の街路を照らした赤信号に、俺はブレーキを踏んだ。ハンドルに手をかけたまま、何気なく視線を助手席へ動かす。ドリンクホルダーの右側には俺が飲んでいたブラック無糖の缶コーヒーがあり、左側はずっと空のままだ。

助手席に座ったは、車に乗り込む前に俺が思いつきで自販機で買ってやったバニラ風味のカフェオレの缶を、もう20分以上も大切そうに膝の上で両手で握り締めている。世の中には、何十万もするバッグを片手で受け取るような女もいるのに、たかだか百数十円の缶コーヒー一本をここまで大切にするは、なかなか希少な存在なのかもしれない。

恋愛など金をかけてする事では無いと思っていたが、いざ百数十円でこれだけ幸せそうにされると、それはそれで居心地が悪くもある。何でも買ってやるというつもりもないが、少なくとも百数十円の缶コーヒーよりはいいものを買ってやるつもりはある。

 

「…でも、谷村さんって何を考えてるのか想像できないです」

彼女の言葉に、意識が現実に引き戻される。「え、」まずい、途中から彼女の話をほとんど聞いていなかった。視線を持ち上げての表情を伺うと、は言葉とは裏腹に、にこにこと嬉しそうに口元に笑みを浮かべていた。人形のようにくるんとカールした睫毛の先に、街灯の白い灯りがきらきらと揺れた。

「谷村さんみたいなかっこいい人でも、自分から女の子をデートに誘ったりするんですね」
「あぁ…」

いつの間にか、話題は俺の恋愛観についてになっていたらしい。俺はハンドルに手をかけたまま、適当な相槌を打つ。が言う通り、このデートは俺から誘っていた。

彼女が俺にどんなイメージを抱いているかは知らないが、実際好きな子をデートに誘うのに、見た目も何も関係ない気はする。俺だって女に興味はあるし、恋愛もする時はするし、好きな子がいれば不埒なことだって考える。例えば、今みたいに好きな子が隣にいる時に、その唇に触れたら気持ち良いんだろうなとか。その先をしたら、どんな表情で、どんな声を聞かせてくれるのかとか。

「…まあ、俺だって好きな子ができたら色々考えるさ」
「色々?」
「ああ。まあ、色々と」

信号のランプが青に代わり、俺は革靴でゆっくりとアクセルを踏む。月夜に照らされた立ち並ぶ住宅が、窓の外に流れていく。は嬉しそうににこにこと笑いながら、膝の上で缶コーヒーをぎゅっと握り締めている。ひらひらしたミニスカートから覗くそのつるりとした滑らかな膝小僧にも、並ぶ街灯の灯りが次々と映し出されては流れていく。俺はハンドルを握ったまま、助手席のに話しかけた。

「…それ、美味い?」
「あ、これですか?」

子供のような丸い目をぱちっと見開いて、は手元のカフェオレの缶に視線を落とす。そして、慌てた様子で俺を見上げ、唇を開いた。

「ごめんなさい、気が付かなくて!よかったら…」
「いや。俺、甘いの苦手だし」
「あ…そうなんですか」

眉をハの字にした彼女は、残念そうにしょんぼりと肩を落とす。しかしすぐに気を持ち直したように胸を張ると、目をきらきらさせて「わたしには、すごく美味しいです」と言葉を続けた。俺は視線を正面に向けたまま、からかうように彼女に言った。

「それだけ甘いと、砂糖水の味がしそうだな」
「え!?砂糖水ですか?」
「そう。コーヒー風味の砂糖水の味」
「えぇ…」

彼女はたちまち表情を曇らせると、手にしていたカフェオレの缶をじっと見つめる。そして一口、こくりと細い喉にそれを流し込んだ。そして舌先を動かして彼女なりに味を吟味した後、なんともいえない複雑な表情を浮かべて首を傾げて小さく唸る。

人通りの少ない横断歩道の手前で、信号のランプが黄から赤に代わる。俺は再びブレーキを踏むと、隣で小さく唸るに視線を動かした。

「…砂糖水かなぁ?」

唇を尖らせて小さく唸るその仕草に、自然と視線が奪われる。それは俺だって、好きな子がいれば不埒なことだって考える。例えば、今みたいに好きな子がすぐ隣にいる時に。

俺はおもむろにシートから体を起こすと、上体ごと助手席を振り返る。そして、驚いたように目をぱちっと見開いた彼女の薄く開かれた小さな唇に、素早く自分の唇を重ねた。感触を確かめるようにその唇を柔らかく啄ばめば、柔らかくふんわりとした温もりが何とも心地よい。触れた唇に甘い砂糖水のようなカフェオレの風味を感じながら、俺はその唇を軽く吸い上げるようにキスしてそっと体を起こした。

「、…あ」

突然の事態に、彼女は丸い目をぱちくりさせて俺を見上げている。俺はゆっくりと体をもたげて再びシートに背中ごと凭れると、わざとからかうような声色で言った。

「砂糖水よりは美味いな」

時間差で自分の身に起きたことを理解したのか、彼女の頬は夜の闇の中で見てもわかるほどに紅潮しはじめる。真っ赤な顔で硬直しているを横に、俺は自分の唇にわずかに残った彼女の唇の味と感触を舌先で舐めて笑った。


 

 

 
スイート・ビタースイート/20120821