雑居ビルの一室に構えられた事務所の前で、俺は冴島さんを待っていた。煤けて曇ったガラス窓から街の景色を見下ろせば、六時を過ぎた街並みは既に薄い紺色に包まれ、街灯にも明かりが灯る。会社帰りのサラリーマンやOL、学生と思しき若いカップル、派手な化粧をして髪を盛った若い女。行き交う人々を視線で追いながら、上等な黒のスーツに身を包んだ俺は、ぼんやりとのことを思い出していた。 三月の一件後、金村興業は冴島組の傘下となった。俺自身は新井さんが戻るまでという条件で金村興業の組長を代行をしながら、冴島組の舎弟頭として動いていた。現状、金村興業の若衆だった頃よりも圧倒的に多忙だった。 (はぁ、) と最後に会ったのは、いつだっただろうか。長く続いた俺の一方的な片想いから春の一件を機に告白に漕ぎ着け、正式に交際の約束を取り付けたのは一件後の事だった。何年も追いかけてようやく手に入れたものの、俺の立場も変わり、かつてのように街中で顔を合わせることも少なくなった。形式上は交際しているとはいえ、実際のところは今まで以上に距離を感じる日々ではあったが、この忙しさの中ではその空虚感すら頭の隅に追いやられる。 街角を歩く人々が、街灯に次々と照らされる。ふと、ビルの真下を仲睦まじく手を繋いだ若いカップルが通りかかった。自分を見下ろす男を見上げて、女は幸せそうに笑っていた。 不意に背後で響いた低い声に、俺は慌てて背中を振り返る。そこには、会合を終えたらしい冴島さんが立っていた。冴島さんは「ん?」と太い眉を訝しげに持ち上げると、俺の隣に来て夕闇に照らされた窓の外を見下ろす。そして、俺が見ていたカップルの後姿を俺と一緒に目で追った。 「なんや?知り合いか?」 俺は姿勢を正すと、窓の外を見つめる冴島さんを背に、出口へと向かう階段に足を進める。親父もすぐに俺の背中について足を進め、俺達はそのまま雑居ビルを後にした。
「ご苦労やったな」 エアコンの効いた車内にはひんやりとした空気が満ちている。隣から響いた声に、俺は顔を上げた。「いえ、」俺は首を振ると、ゆっくりと背もたれにもたれる。バックミラーに、真剣な面持ちの舎弟の表情が映りこんでいる。特に意味もなくぼんやりとその表情を見つめていると、再び隣から冴島さんの声が響いた。 「…そういや、城戸ちゃん。自分、彼女おるんか?」 思いがけない質問に思わず間抜けな声が漏れ、すぐさま慌てて「いえ、」と訂正すると、俺はしどろもどろになりながら言葉を返した。 「ええ、まぁ…一応」 短く返事を返したきり、冴島さんは窓の外の景色をじっと見つめている。何となく居心地の悪さを感じながら、俺は姿勢を正して再び視線を前に向ける。フロントガラスの向こうには、昭和通りのビル街が夕闇にも眩く光り輝いていた。 「ほんなら、もう長いこと会うてへんやろ」 思いがけない言葉に動揺していると、冴島さんは舎弟に声をかけて車を止める。そしてうろたえる俺を車内に置いて、「ちょお待っとれや」と一人そのまま車を降りた。俺も慌てて車を降り――そして言いつけ通り車の目に立って冴島さんを待つ。数分後、何かが入った袋を手にして、冴島さんは車に戻ってきた。 「冴島さん、急にどうしたんです」 冴島さんは感慨深げにその名前を呟くと、目を閉じて一つ頷く。そして手にしていた袋を俺の前に差し出すと、低い声で言葉を続けた。 「土産や。ちゃんと一緒に喰うたれや」 受け取った袋を覗き込むと、そこには寿司吟の高級寿司折が二つ、入っていた。驚いて顔を上げると、冴島さんは優しく目を細めて俺を見下ろしていた。 「あ…ありがとうございます、冴島さん!」 思いがけない冴島さんの行動に、俺は思わず深々と頭を下げる。冴島さんはふっと唇の端で笑って首を横に振ると、いつもの低い声で言葉を続けた。 「ちゃんとちゃんのとこに顔出したるんやで」 冴島さんは大きな手のひらで俺の肩をぽんと一つ叩くと、大きな体を屈め、舎弟が開けた扉から車に乗り込む。俺は冴島さんの乗った車が小さくなって見えなくなるまで、深く頭を下げてその姿を見送った。
待ち合わせ場所はミレニアムタワー前にした。短くなった煙草を灰皿に押し付けると、数ヶ月前までは無かった上等な左手の腕時計に視線を落として小さく溜め息を着く。 「城戸さん!」 反射的に肩をびくりと跳ね上げて、隣を振り返る。するとそこには、にこにこと笑顔を浮かべて俺を見下ろしているの姿があった。俺は慌てて立ち上がると、に真正面から向き直り…そして、思わず視線を逸らした。久しぶりに見たは、毎日男ばかり見てきた俺の目にも心にも、あまりにも刺激が強すぎた。頭を掻きながら、ぎこちなく視線を持ち上げて…そして目を合わせる。見下ろしたは、甘い笑顔を浮かべて俺を見上げていた。 「お久しぶりです、城戸さん」 彼女の笑顔につられるように、俺も少しだけ表情が綻んだ。久しぶりに見るその笑顔は甘く、見つめられれば胸の奥が苦しい。俺はその甘い視線に鼓動を高鳴らせながら、できるだけ平静を装って言葉を続けた。 「これ。冴島さんが、ちゃんにって」 は丸い目を更に丸く見開いてぱちぱちと瞬きをすると、俺が差し出した袋の中身を身を屈めて覗き込んだ。袋を見下ろす伏せた長い睫毛がふとぱちっと持ち上がり、そしてその目が嬉しそうにきらきらと輝いた。 「すごい!寿司吟のお寿司、わたし食べたことないよ」 は小さく頷くと、嬉しそうに笑った。俺もゆっくりと一歩、足を踏み出して…そして、さりげなく左隣の彼女をちらりと見やる。彼女は右手に、冴島の親父からの寿司折の袋を大切そうに握り締めていた。
俺はスーツから袖を抜いて上着をハンガーにかけると、ソファにどかっと腰を下ろして襟元のネクタイに手をかける。は大切そうに持っていた寿司折を黒いテーブルの上に置くと、俺を振り返って「あ、」と声を漏らし、小走りで俺の元に駆け寄った。 「城戸さん、わたし…、…!」 ネクタイに指を絡ませながら顔を上げると、はハッと驚いたように目を丸くした途端、急に大人しくなってソファの隣にちょこんと腰を下ろした。突然の行動に俺はソファから身を起こすと、指を絡ませてネクタイを外しながら隣で小さくなるを覗き込んで尋ねた。 「? どうかした?」 ネクタイを外しかけた体勢のまま、一瞬にして思考が停止する。そして彼女の言葉の意味を理解し、想像して――数秒の間の後、たちまち耳まで熱くなった。ソファに腰かけたまま、茹蛸のように赤くなった俺の横で、恥らいの表情を浮かべたのその滑らかな頬もみるみるうちに紅潮していく。彼女は唇を小さく動かして、続けた。 「城戸さん、前はネクタイしてなかったから…」 一体彼女はどれだけ俺を恥らわせれば気が済むのだろうか。結果的に、彼女の恥じらいはいつだって俺を巻き込むのに。確かに彼女の言う通り、一件の前まで俺がネクタイを締めることなんてそうそう無かったし、何ならスーツの上着を着ることもなかった。俺はネクタイから絡めた指を解くと、一つ深呼吸をして、彼女に向き直る。そして動揺を悟られないように、必死に抑えた調子で彼女に言った。 「じゃあ、お願い。…します」 両手を両膝の上に乗せて、彼女がとりやすいようにしてやる。できるだけ動揺を悟られないように、腹に力を込めて彼女に向き合った。はしばらく困ったような表情で視線を彷徨わせていたが、やがて小さく頷くと、俺の襟元に腕を伸ばす。彼女の白くて細い指先が俺の襟を掠めて、思わず息を止めてしまう。距離が遠いせいか、緊張しているのか、彼女の手つきはぎこちない。俺はしばらく呼吸を止めてじっとしていたが、やがて堪え切れなくなり、深く息を吸い込む。そして覚悟を決めると、膝を握り締めていた手を伸ばして、彼女の背中を抱き寄せた。 「わっ」 自分より軽く一回りは小さいその背中に腕を回して抱き寄せると、その体を自分の左腿の上に抱きこむように座らせる。ここまできたら、もう自滅覚悟だ。高鳴る鼓動を押し殺しながら、彼女の耳元で尋ねた。 「外せそう?」 彼女は頬を紅潮させながらこくりと頷くと、もう一度手を伸ばして俺のネクタイに指を絡め、そして解いた。首から垂れ下がる形になったネクタイを抜き取り、自分の膝の上で丁寧に二つに折りたたむ。すぐ間近で揺れる長い睫毛に途端に愛しさが込み上げて、心臓がぎゅっと痛む。さらさらした栗色の髪から香る甘い匂いに、理性が効かなくなる。会えない日々を乗り越えた俺には、もう心も体も我慢の限界だった。 「ちゃん、」 名前を呼んで、その目を間近で見下ろせば、吸い込まれてしまいそうに印象的な二つの光がこちらを見つめ返している。俺はそっと手を伸ばしてその頬を優しく撫でると、驚いたように薄く開かれた唇に、できるだけ優しく唇を合わせた。角度を変えながら唇を啄ばむと、彼女の唇がおそるおそる俺の唇をちゅっと軽く吸い返してくる。その心地よい温もりと感触に、頭の芯がぼうっと気持ち良くなり、下半身の熱が一気に加速する。 「やだ…」 耳を撫でる吐息交じりの上擦った声に、下半身がどくりと脈を打った。濡れた小さな唇にもう一度唇を重ねると、ゆっくりと舌を入れてその舌先を舐め、ゆっくりと絡め取る。俺の首にしがみつく彼女の指先がぴくりと緊張し、その肩が跳ねる。キスの合間に漏れる甘い吐息に、昂ぶった下半身の熱はもう誤魔化しが利かなかった。 「ちゃん」 名前を呼ぶと、熱に浮かされたようにとろんとした眼差しが俺に向けられる。俺は艶っぽいその表情を見下ろしたまま、言葉を続けた。 「奥の部屋、ベッドあるから…」 部屋の奥の白い扉に視線をやって合図をしたが、はふるふると首を横に振る。拒絶されたのかと言葉を呑むと、彼女は俺の動揺を打ち消すようにもう一度首を横に振った。そして潤んだ目で俺を見上げたまま、濡れた唇を動かして、吐息混じりの声で呟いた。 「このまま、して」 その甘い懇願に、俺の頭の中で何かがぷつりと途切れた。
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