夕方過ぎの劇場前広場。仕事を終えたサラリーマンやOLで賑わう雑踏の中で、俺は前方数メートル先にいると男を背後から睨んでいた。彼女が俺以外の男に言い寄られていることには以前から気が付いていた。時々携帯電話を見ては憂鬱げな表情で溜め息をついていたし、俺自身、警邏中にが男に言い寄られているのを何度か目撃していた。一言でも彼女が相談してくればすぐに相手の男を熨してやるつもりだったが、いくら待っても彼女はその話を俺に持ち出してこなかった。 じわじわと距離を詰める男を見上げたの横顔は、今にも泣き出しそうに見える。彼女が俺に黙っていると決めたのなら俺も知らないふりをしてやるつもりだったが、惚れた女のあんな顔を見たらさすがに俺も黙っていられない。腹の底からふつふつと湧き上がる怒りを拳に込めて、コツ、と音を立てて一歩前方に足を進める。――とその時、俺の目の前で、男はふざけた様子での手を握った。は驚いたように目を見開き、掴まれた手を咄嗟に振りほどく。彼女の表情にはっきりとした恐怖を読み取った瞬間、俺の中でぷつり、と何かが切れた。 「――おい。アンタ、何してんだ」 歩み寄り、喧騒の中にもはっきりと伝わる声で、俺は背後から二人に声をかけた。けだるい動作で振り返った男は、俺の格好と様相を見るなり、ぎょっとした表情を浮かべて後ずさる。一歩遅れてこちらを振り返ったは、驚愕の表情で目を見開いた。じり、じりと後ずさりをしながら、男は俺に尋ねた。 「え、なんで…警察?」 あっけに取られたように、男は口をあんぐりと開けて言葉を失った。その頭の悪い間抜け面に、俺の怒りは更に加速する。これが警邏中でなければ、その顔面を一発ぶん殴っていたところだろう。煮え返る腹の内を静かに抑えながら、俺は言葉を続けた。 「人の彼女に手出すなんて、なかなか良い度胸してるな」 じり、と男ににじり寄ると、男は必死な形相で慌てて後ずさり、そして脱兎の如く駆け出す。その背中を追う気も起こらず一つ溜め息を吐いて隣のを見やると、は今にも泣き出しそうな表情で目の淵までいっぱいに涙を浮かべてじっと俯いていた。
夕方のビルの屋上に人気はなかったが、地上の喧騒が様々な店のメロディと混じり合い、屋上ではそれがざわざわとした音に聞こえた。夕焼けの赤橙に照らされて、俯いたの滑らかな頬に伏せた長い睫毛の影が落ちる。俺は右手で煙草を唇にくわると、その煙を肺深く吸い込んで、そしてゆっくりと吐き出した。細い薄灰の煙が、夕焼け空に棚引いている。 俺は屋上の柵に片腕を乗せたまま、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出して、唇から煙草を抜き取る。そして備え付けの灰皿に手にした煙草の先をぐりぐりと押し付けると、受け皿に短い吸殻を捨てた。 「迷惑かけられてたのはの方だろ?」 唇をぎゅっと噤んで、申し訳なさそうに視線を落とす。初秋の風が吹き抜けて、俯く彼女の栗色の髪がさらさらと揺れた。俺は上半身から体をくるりと翻すと、屋上の柵に背中をもたせ掛けて両肘を着く。そして夕焼け色の空を仰いで、唇を開いた。 「まぁ…自分の彼女が目の前でよその男にちょっかい出されたら、俺も黙ってられないな」 いざ口に出すと、胸に閉まっていた時よりも随分と自分が苛立っていたことに気付く。自分の言葉に、押し殺した怒りが更に加速する。今更になって、あの男を殴らなかった事を後悔していた。どうせなら、説教も処分も覚悟で黙って一発ぶん殴ればよかった。胸に込み上げる怒りと後悔を、深い深呼吸で腹の底に押し戻す。は長い睫毛の先に憂いの影を落として、消え入るような声で小さく呟いた。 「嫌な思いさせて、ごめんね」 思いがけない言葉に、俺は僅かに眉を持ち上げる。嫌な思いをさせたのはじゃないし、むしろは被害者だろう。それに俺にとって、と付き合えば他の男とやり合うことくらい想定の範囲内だし、むしろ他の男とやりあうくらいに可愛い子と付き合っている事に一種、優越感すら感じる。隣で俯くを横目に、俺は口を開いた。 「嫌じゃないけどさ」 一度言葉を切ると、がまだ少し潤んだ目で俺を見つめ返してくる。俺は少しだけ体を起こすと、柵の前に真直ぐ立ってを見下ろした。 「これからは、もっと早く俺を頼ってくれ」 夕焼けの赤橙とは違う紅が微かにの頬に差したのを、俺は見逃さなかった。上着のポケットに両手を突っ込んで、背中で柵にもたれかかる。そして何気なくもう一度に視線をやると、は頬を赤らめながらも、戸惑い、疑うように訝しげな視線を俺に向けていた。その子供のような照れ顔に、俺は思わず小さく吹き出す。そして喉の奥でくつくつと笑いを殺しながら、目を細めての顔を覗き込んだ。 「…その顔。信じてないだろ」 はぎくっと気まずそうに表情を強張らせると、丸い目を潤ませて俺をじっと見つめ返してくる。俺は少し笑うと、柵から体を起こし、と真直ぐに向き合った。驚いたように眉を持ち上げて俺を見つめ返したに、俺は笑みを含んだ声で言った。 「あのさ、」 言い終えると同時に、その目が大きく見開かれ、滑らかな頬が紅潮した。予想を裏切らない素直な反応に、押し殺しきれない笑みが唇の端から零れる。彼女の心の準備などお構いなしに、俺は上着のポケットに手を突っ込んだままおもむろに背を屈め、彼女のキスを仕草でねだった。 「…こんなところで?」 間髪いれずに言い返すと、は困ったように言葉を呑み、唇を結ぶ。そしてしばらく考えたあと、覚悟を決めたように小さく溜め息をつき、ぐっと背伸びをして俺の顔にその顔を寄せる。俺は身を屈めたまま、目を瞑ってやる素振りで――こっそり片目を開けて、キスするの表情を覗き込んだ。 「挨拶のキス、です」 やはり、にはとことん色気はないようだ。ここまでくると、逆に清々しい気もしてくる。触れられた頬に手を触れ…そしてそのまま、伸びたえりあしの辺りを掻いて、呟いた。 「…そりゃ、どうも」 ゆっくりと上半身を起こし、そのまま視線を空へと持ち上げる。赤橙だった夕空は、少しずつ紺青に色を変えつつあるようだ。あまり道草を喰い過ぎてもまた面倒なことになる。上司にどやされる前に警邏に戻ろうかと、上着のポケットに手を突っ込んで地上出口へ向かう階段にちらりと視線をやったその時、視線を逸らした俺の耳にの声が届いた。 「…もし、お仕事が終わったら」 思いがけない言葉に振り返った俺の目に飛び込んだのは、丸い目を潤ませて、懇願するような表情で俺を見上げているの姿だった。見た事のないその表情に、俺の視線は奪われる。なんだ、意外と色気のある顔もできる… 「…じゃあ、もう終わるか」 複雑な表情で言葉を返すその頬に、紅が差す。夕焼けの赤橙は既に秋の夜空に溶け込んでいたので、その紅は間違いなく俺に向けられたものだろう。地上の喧騒が路面店に流れるメロディと交じり合ってざわざわと響く。滑らかなその頬の輪郭を、少しだけ冷たくなった夕方の風がふわりと撫でて通り過ぎた。
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