雨が降り始めたのは、の家まであと数十メートルというところだった。頬にぽつり、と雨粒を一滴感じたかと思うと、たちまちざああという音と共に辺り一帯に叩きつけるように雨粒が降り注ぐ。俺は咄嗟に上着を脱いで彼女の頭から被せると、その肩を抱き寄せるようにして彼女のマンションの軒下へ駆け出した。

今朝の天気予報では雨の予報はなかったはずだし、きっと通り雨だろう。マンションのエントランスの扉を押し開けると、革靴の爪先の先から雨粒が床のタイルに滴った。濡れて額に張り付いた髪を掻き上げると、額の辺りから顎先に雫がつうと滴り落ちる。は俺の上着から顔を出すと、慌てた様子で俺を見上げた。

「城戸さん!ご、ごめんなさい!上着が…体も、」
「いえ。つーか、ヤニ臭いっすよね…すんません」
「そんなことないです!」

彼女の肩に被さった俺の上着は、の背丈だと尻辺りまですっぽり覆ってしまうので、まるで子供が雨合羽を着ているように見えた。俺は雨に崩れた髪を両手で掻き上げて整えると、小さく咳払いをする。エントランスの扉の向こうでは、大粒の雨がコンクリートの地面に盛大に叩きつけられているのが、街灯の白い灯を受けて霞んで見えた。

(こりゃタクシーだな…)

ざあざあと叩きつける雨粒と、夜の暗闇にもはっきり見て取れるアスファルトが跳ね返した大量の飛沫に、扉の向こうを見つめて一つ溜め息を吐く。ついてねぇな、と小さく肩を落とすと、背後で俺の上着に包まっていたが口を開いた。

「あの…」
「はい?」
「…良かったら、わたしの部屋に来ます?」
「は……、」

一生懸命な仕草で俺に語りかけるの顔を見つめたまま、俺の思考は一時停止し…そして急速に回転し始めた。
の部屋に上がる?俺が、ちゃんの部屋に。――いや、そもそもすげえ濡れてるし、服も煙草臭いし、とても女の子の、それもちゃんの部屋に上がれるような状態では、絶対にない。途端にどきどきと高鳴り始めた鼓動を必死に落ち着けながら、俺は彼女に言葉を返した。

「いや、大丈夫っす。タクシーありますし」
「だって、濡れたのわたしのせいです…!家まで送ってくれたから…」

そう呟いたの表情が、たちまち悲しげに曇る。俺は慌ててきっぱりと大きく首を振ると、彼女の言葉を否定した。

「それは、俺が送りたかっただけなんで」
「でも…それで風邪引いちゃったら、わたし…」
「いや!昔から、体は丈夫な方なんで…」

言いかけて、言葉を呑む。彼女は今にも泣き出しそうな表情で俺をじっと見つめていた。降り始めの雨粒に濡れた白い頬が、とてつもなく色っぽい。
――いや、だからこそ部屋に上がるとまずい気がする。間違っても不貞を働くつもりはないが、でも惚れてる女の子の部屋に上がること自体、一種の不貞にも思える。それも、こんな夜分遅くなら尚更だ。
俺が言葉に詰まっていると、俺を見つめていたの唇が、おそるおそる、消え入るような声で言葉を紡いだ。

「…雨が止むまでの間だけでも、だめですか?」

好きな子にそんな顔をされたら、断るわけにもいかない。俺は濡れた革靴の先に一度視線を落としたあと、頭をわしわしと掻いて、そのまま一言「じゃあ…少しだけ、」と頭を下げた。

 

 

 

 

「お邪魔しまーす…」

玄関で濡れた革靴を脱いで、俺は恐る恐る彼女の部屋に足を踏み入れた。白を基調とした部屋には、毛足の長いベージュのラグに白い木のローテーブル、液晶テレビや観葉植物の鉢植えが並び、綺麗に片付けられていた。は部屋の照明をつけると、「ちょっと待っててください」と俺の横をすり抜けて部屋の奥に小走りで駆けて行く。俺は初めて見る光景に口を開けたまま、辺りをゆっくりと見回していた。

(なんか、綺麗な感じだな…)

周囲に視線をめぐらせれば、様々なものが目についた。壁の時計や本棚、卓上カレンダー…何気なく目に付いた棚に近づいてみると、そこには写真立てがいくつか並んでいる。何気なく身を屈めて覗き込むと、写真立ての中で、過去のと思しきブレザーの制服姿の少女が、友達らしい女子生徒と並んで、弾けるような笑顔をこちらに向けていた。

「お…」

今の面影をそのままに少し幼くしたようなその笑顔に、吸い込まれるように視線が釘付けになる。
染めていないだろう髪色は今よりも少し暗く、でも今と同じようにさらさらとした柔らかそうな毛質で。きっと化粧もしていないのだろうが、それが今の彼女を知る俺には新鮮で、より可愛らしく見える。

(昔から可愛かったんだなー…)

様々な経験を経て大人と呼ばれる歳になり、ようやく出会えたからこそ俺は彼女に惚れこんだのだろうと思っていたが、いざこうして見ると、多分この頃出会ったとしても俺は惚れていたような気がする。まあ、学校にこんな子がいたら間違いなくモテただろうし、きっと気が気じゃなかったはずだ。今出会えたのは俺にとっては幸運かもしれない。

「城戸さ…、あっ」
「あ!…す、すんません」

部屋の奥から戻ってきたは、俺が写真を見ていることに気付くとその目をまあるく見開いて、僅かに頬を紅潮させた。俺は慌てて写真立てから視線を上げると、戻ってきたを振り返る。白いバスタオルを胸に抱えたまま、やや動揺した様子で俺を見上げる彼女に、俺は照れ隠しに頭を掻きながら、何の気なしに呟いた。

「なんつーか、可愛いっすね…」
「えっ」

俺の言葉から数秒後、みるみるの表情が変わっていく。俺も、の表情に視線を奪われ――そして、自分がとんでもないことを言ってしまったことに初めて気がついた。
いや、よく考えたら俺、何言ってんだ。普通に“可愛い”って…本人の目の前で、本人を。包み隠さず、直球で!気付いた途端、猛烈な恥ずかしさに襲われ、無意識の呟きを後悔した。消えてしまいたい気持ちを必死に誤魔化しながら場をやり過ごそうとしていると、は困ったように俯いて、小さく呟いた。

「あ…、ありがと…」

そんな顔されたら、余計に恥ずかしくなる。一気に背中を駆け上がる熱を悟られないように必死に視線と意識を逸らして精神を落ち着けていると、は「そうだ、これ…」と手にしていたバスタオルを俺に手渡した。

「良かったら、これ。使ってください」
「あ、すんません…」

バスタオルを受け取ると、きっと赤くなっているだろう顔を隠すように頭からそれを被り、濡れた髪をわしゃわしゃと拭った。濡れて冷えていた鼻先を拭うと、時々彼女からふわりと香る柔軟剤の匂いが鼻腔に広がる。その心地よい香りにぼうっと酔っていると、ふとタオルの隙間から見えた彼女の頬がまだ紅潮していたので、一瞬にして頭が覚醒し、そして再び消えたくなった。



不意に、強風に煽られたらしい大粒の雨が窓ガラスをざああと激しく叩き付けた。同時に、少し離れた場所で雷の音がごろごろと低く唸りを上げて響く。いよいよ天気も荒れてきたようだ。俺は被っていたバスタオルをさりげなく首の辺りに下ろしながら、カーテンの隙間から見える窓の外の景色にちらりと目をやった。

「外、何かヤバそうっすね…」
「うん…一人だったら、ちょっと怖いかも」

は眉をハの字にして、少しだけ笑う。笑った時に少しだけふっくら持ち上がる柔らかそうな白い頬が、天井の照明に照らされて、いつも以上に滑らかに見えた。俺はその頬に思わず視線を奪われたまま、彼女の言葉をなんとなく聞き流す。その頬に触れたら、どんな感触なんだろうか。

「城戸さんがいてくれて、良かったです」
「…えっ」

思わず動揺したところに、彼女のきらきらした黒い瞳がぶつかった。その目に見つめられれば、俺は弱い。動揺を悟られないように視線を逸らせば、逸らした先では写真立ての彼女の笑顔があったので、俺はますますたじろいでしまう。まだ少し濡れた髪を手のひらでわしわしと掻くと、できるだけいつもと同じ調子で答えた。

「いや…、俺の方こそ」

冷静に考えれば、何が“俺の方こそ”なのか我ながら意味が良くわからないが、は嬉しそうににこっと微笑んだだけだった。そして、思い出したように「あ、」と小さく声を漏らすと、はポケットに手を入れて、ごそごそと携帯電話を取り出す。液晶に触れて指を滑らせると、画面を操作をしながら呟いた。

「そうだ、天気予報…」
「あ、…」

確かに、この様子だと天気予報も変わっているかもしれない。俺は向かい合ったまま、自分よりずっと背の低い彼女の手元を背を屈めて覗き込んだ。彼女が指先で何度か操作すると、天気予報の表が現れ…そして、その指が止まる。ちょうど彼女の指が触れたところには、傘マークの横に数字で100%と表示されていた。

「『今夜の降水確率、100%』…」
「…今、何時だっけ?」
「11時で…、明日の朝までずっと100%…」

思わず言葉を失って黙り込んだところに彼女もおずおずと視線を持ち上げてきたので、ごく近い距離で視線がぶつかった。くるんと上向きの長い睫毛がすぐ触れそうな距離でこちらを向いている。その奥にあるきらきらとした黒い瞳に吸い込まれそうになりながら、必死に頭を回転させて言葉を探していると、彼女の方が先に、おそるおそる唇を開いた。

「どうしよう。…朝まで、お喋りします?」

ざああと窓を叩きつける雨粒の音の中にもはっきり聞こえたその言葉に、甘い絶望と、ほろ苦い希望を同時に胸に感じた。当分止みそうもない窓の外の雨音に、俺はまだ乾かない濡れた髪をわしわしと掻いて、「…はは、」と少しだけ笑った。





 

 

 
赤い傘、白い傘/20120918