夜の寒気にすっかり冷えきった鼻先をずっとすすりながら、ポケットの中に突っ込んだ指先を握り締める。寒さに背を押されるように早足でニューセレナビルの階段を上がると、素早くポケットから手を出してスカイファイナンスの扉を開いた。

「ちーっす…、あれ」

扉を開くと、蛍光灯の灯りは点いているものの、室内には誰もいない様子だった。入り口の付近に置かれたパーテーションの向こうで、ストーブが熱にちりちりと音を立てている。しんと静まりかえった室内に、革靴の踵がタイルを蹴り出す音が、コツ、コツと響く。俺はおもむろに辺りを見渡しながら、ゆっくりと足を進めた。

「秋山さん…は、留守か」

資料の積み重なったテーブルの向こうに、秋山さんの姿はなかった。花ちゃんの姿もないということは、二人とも集金にでも出ているのだろうか。

(仕方ない、出直すか…)

俺は肩を落として小さく溜め息をつくと、出口の方へ何気なく視線を動かし――そして、そのまま視線を奪われた。ストーブの奥、パーテーションの裏に設置された応対用のソファに横たわっていたのは、俺が密かに想いを寄せているちゃんの姿だった。

「…ちゃん?」

ちゃんは、あどけない表情でソファの腕掛けに頬を寄せて静かに寝息を立てていた。引き寄せられるようにソファへ一歩、二歩と近づき、正面に立って寝息を立てているちゃんを見下ろす。そして身を屈めて、その表情を覗き込んだ。

「はは、こんなとこで寝るなんて、秋山さんみて…」

言いかけたところで、俺は思わず息を呑んだ。

(…って、)

――やばい。これは、近くで見ると思った以上にやばい。何がやばいって…長い睫毛とか、ストーブの熱で赤くなった頬とか、ちょこっとだけ開いた唇とか、小さな呼吸とか…。つーか、全然秋山さんみてぇじゃねぇな。やばい。これは…やばすぎる。でもとりあえず、こんなところで寝てたら風邪ひくし…

「っと、…なんかねぇかな…」

体を起こすと、周囲を見渡してみる。こんな場所で寝ていたら風邪を引いてもおかしくない、毛布かタオルか何か肩にかけてやりたいが――手近にそれらしきものは無さそうだ。俺はとりあえず羽織っていた上着を脱ぐと、ソファで寝息を立てているその肩に、起こさないようにそっとかけてやった。

「………」

こんなに至近距離で、誰にも気を使うこともなく彼女の顔をまじまじと覗く機会など、今後もきっとそうはない。俺は彼女の傍らにしゃがみこむと、じっとその寝顔を覗き込む。やっぱり、可愛い。すげー可愛い。この先、こんなに俺の理想の女の子と出会えることもないだろう。

(……やっぱり、可愛いな)

「あー、うん。可愛いよねぇ」

「!」

突然背後から響いた声に肩を跳ね上げて振り返ると、そこには無精髭をたくわえた顎を撫でながら、やや気まずそうに視線を逸らしている秋山さんの姿があった。俺は慌てて立ち上がって数歩後ずさったが、ちゃんの体には俺の上着もある、彼女に見惚れていたことは言い訳のしようもない。

「あ、秋山さん…」

どくどくと爆発しそうな鼓動を必死に押し殺して秋山さんを見ると、秋山さんは俺と入れ替わるようにソファの前にしゃがみこんで、ちゃんの顔を覗き――そして、その額を手のひらでそっと撫でた。突然の行動に俺が一瞬眉根を寄せると、秋山さんは俺の胸中を察したように先に口を開いた。

「あーあ…全然下がってないな、こりゃ」
「え…」
「それがさ。ちゃん、昨日から風邪引いて、熱出してんだよ」

「家のヒーターが壊れたらしいから、そのせいだって言ってるけど」秋山さんの言葉に、慌ててちゃんの元に近寄ると、しゃがみこんでその表情を覗き込む。そう言われてみれば、頬が赤いのも、小さく繰り返される浅い呼吸も、ストーブのせいだけではないかもしれない。風邪引いてるのに、仕事に来て、こんなところで休憩して――。小さな呼吸を繰り返すその寝顔をじっと見つめるうちに、だんだん居てもたってもいられなくなってきた。

「…ところで城戸ちゃん、ウチに何か用だった?」
「いえ、…俺、ちょっと出てきます」
「え?」
「なんか風邪に良さそうな物、探して来るんで」
「え…」

俺は勢いよく立ち上がると、そのまま事務所の扉に向かって大股で歩き出す。秋山さんは俺を振り返ると、少し慌てた様子で声を張った。

「っつったって城戸ちゃん、外すっげぇ寒いぜ?上着…」
「ひとっ走り行ってくるんで、大丈夫っす」

「それ、そのままかけといてあげて下さい」と一言付け足すと、俺は事務所の扉を開けて、勢いよくビルの階段を駆け下りた。

 

 

 

 

目が覚めた時には、部屋には誰もいなかった。蛍光灯の白い灯かりが寝起きの目には眩しくて、重たい瞼をごしごし擦る。休む前は熱で重くて痛かった体も、少し横になったせいか、喉が少しひりひりするくらいで大分楽になっていた。おもむろにソファに手をついて体を起こすと、わたしの肩からずる、と何かが滑り落ちる。少し驚いて、おそるおそるそれを覗き込むと、そこには見慣れたつるんとした赤い生地に、くすんだ白い糸の刺繍が施してあった。

(え…?これって、城戸さんの…)

わたしの肩にかけられていたのは、紛れもなく城戸さんの上着だった。サイズも、刺繍も、ほのかに香る煙草の香りも、どれをとってもこれが彼のものであることに間違いない。でも、どうして城戸さんの上着がここにあるのだろう。わたしが眠っている間に、城戸さんはここに来たのだろうか。

わたしが着るには大きすぎるその上着をそっと手繰り寄せて膝の上に乗せたその瞬間、扉の向こうから勢いよくビルの階段を駆け上がる音が響く。驚いてそのまま扉に視線を奪われていると、その扉がばん、と勢い良く開き――ハァ、ハァ、と大きく肩で息をしながら、城戸さんが中に入ってきた。

「ハァ、秋山さ…」
「あ、城戸さん」
「えっ…」

驚いたように眉を持ち上げた城戸さんは、やっぱり上着を着ていない。そして外の寒気のせいか、その鼻先はわずかに赤くなっている。城戸さんは後ろ手に扉を閉めると、弾んだ呼吸を整えながら、急ぎ足でわたしの元に歩み寄る。わたしもソファから立ち上がると、スリッパに爪先をいれて城戸さんの下へ歩み寄った。

「城戸さん、あの、上着…」
「あ…すんません。毛布とかあれば良かったんすけど…」

見上げると、城戸さんは照れたように頭を掻いて視線を逸らす。そしてすぐに視線を戻してわたしに向き直ると、唇を開いた。

「秋山さんから、ちゃんが具合悪いって聞いて…」
「あ…そうだったんですね!でも、少し寝たら大分良くなりました」
「いや…声、掠れてるけど」

「あ…」と呟いて掠れた吐息を呑み込んだわたしに少しだけ笑うと、城戸さんは手にしていたビニール袋を「これ、」と差し出した。そっと城戸さんを見上げると、城戸さんは真面目な表情で言葉を続けた。

「良かったら、使ってください」
「え…」

城戸さんの表情から視線を下ろして、手の中のビニール袋を身を屈めて覗き込むと、そこにはことぶき薬局の風邪薬や冷感シートや、ペットボトルの飲料が入っていた。こんな冬の寒い日に、上着もわたしの為に置いて、息が上がるほど走って――。

「…これ、わたしのために?」
「え?ま、まぁ…そう、ですけど」

ゆっくりと視線を持ち上げると、少し動揺した様子の城戸さんの視線がぶつかる。そのすっと鋭い鼻の先はまだほんのり赤味を帯びていて、そこには外の冷気がまだ残っているようだった。わたしはスリッパの爪先でもう一歩足を踏み出すと、少しだけ近くで城戸さんを見上げる。そして、ビニール袋を持ったその武骨な手の甲に、指先でそっと触れた。

「!」

驚いたように、城戸さんの手が僅かにびくっと跳ねる。わたしは額の少し先に城戸さんの動揺を感じ取りながらも、その手の甲を滑り降りて、ビニールにかかった筋張った指先に触れる。思った通り、城戸さんの指先は凍ってしまいそうにひんやりと冷たくなっていた。

「手、冷たい…」
「え!?…い、いや…」
「ごめんね。寒かったのに…」

喉をひりひりと焦がして呟いた掠れた声は、しんと冷えた夜の空気に吸い込まれる。城戸さんは落ち着かない様子で視線を彷徨わせていたけれども、やがて少しだけふっと表情をやわらげると、ゆっくりとわたしに向き直って、少し癖のある掠れた声で言った。

「、つーか、ちゃんの手、すげぇ熱いっすね…」
「うん、」
「はは、…あったけぇ」

触れた指先が火照って熱いのは、おそらく熱だけのせいではないだろう。城戸さんの冷たく冷え切った指先に、わたしの指先の熱が伝わって、徐々に触れ合う部分が熱を持ち始める。蘇る彼の手のぬくもりを愛しく想いながら、わたしは彼を見上げてひりひり痛い喉で少し笑った。





 

 37℃/20120924