事務所から程近い神室湯之園に遊びに来ていた俺達は、人気の温泉に入浴後、卓球をする約束をした。貸し出された薄紺色の浴衣に着替えた俺は、裸足の爪先をスリッパに突っ込んで卓球場へ向かう。フロントで貸し出しの用具を受け取って、彼女を待ちながら何となく周辺の売店を見て回っていると、ふと通りすがった壁に、やけに目立つ貼り紙が掲示されていた。訝しげに眉根を寄せて見上げると、そこには大々的なあおり文句が並んでいた。

『カップルは罰ゲームに挑戦!負けた方が勝った方にキスする事!』


(へぇ…)

表向きには若干呆れながらも、頭の片隅でぼんやりと妄想を廻らせてみる。

俺に負けて、少し悔しそうに唇を尖らせた浴衣姿のちゃんが、照れ臭そうな表情でちょこっとだけ背伸びして、俺の浴衣の胸元をちょこっとだけ引っ張って、そんで俺の唇に、軽くチュッとキスをして、そんで恥ずかしそうに俯いて――

(……。)

――いや、このシチュエーションはなかなか悪くない。むしろ有りも大有りだ。…ただ、そもそも俺とはカップルではないから、この罰ゲームの対象にならないのだけれども。第一、と個人的に二人っきりで会えて、おまけにその浴衣姿が見られるというだけでも内心相当浮かれているくらいだ。
ぼんやりと貼り紙を見上げながら半渇きの髪を手のひらでかき上げると、背後からぱたぱたと小さなスリッパの足音が響いてきた。

「ごめんね、お待たせしました!」
「お…」

何気なく振り返った俺は、そのまま完全に視線を奪われた。見下ろした先で、薄桃色のミニ丈の浴衣に身を包んだが小首を傾げてにっこりと俺を見上げていた。

いつもおろしている髪はアップにまとめられ、膝上の浴衣の裾からは柔らかそうな太ももが伸び、浴衣の襟元の合わせ目の隙間から僅かに覗く白い肌は、温泉の熱気に上気して僅かに色づいている。言いかけた言葉を呑んで、彼女の格好を頭のてっぺんから爪先まで食い入るように見つめる。――これは、想像以上に…

(…すっげぇ可愛いな…)

…可愛い。可愛いし、男を誘うような色気があって…正直、相当そそられる。

ここに来たのが平日の空いている時間帯で良かった。これで周囲が混み合っていて、柄の悪い野郎共でもいようものなら俺は気が気じゃなかっただろう。俺の熱視線になど気付く由もないはほてった首元を手のひらでぱたぱたと仰ぎながらにこにこ笑っていたが、ふと目の前にある貼り紙に気付くと、その視線を持ち上げた。

「? 罰ゲーム…」

貼り紙の文字を見つめる無防備な横顔にまた視線が釘付けになりかけて、俺は邪念を慌てて振り払うと、隣のに声をかけた。

「道具借りたから、あっちで」
「うん、」

手にした道具を掲げて卓球台へ続く廊下を指すと、少し貼り紙の方を気にしながらも、は振り返って微笑む。そしてスリッパでぱたぱたと足音を立てて、俺の隣にくっつくように並んで歩いた。

 

 

 

 

「試合っつっても練習だし…まぁ、気楽に」
「うん!」

卓球台を挟んで声をかけると、は嬉しそうに目を輝かせて頷く。俺も軽く頷くと、左手でピンポン玉を台に落とし、軽く打ってネットの向こう側に球を入れた。は真剣な眼差しで球を追いながら、慎重な仕草でラケットを振る。コツンという音と共に、球は頼りない曲線を描いてこちら側のコートに戻ってきた。

「お、上手い」
「うん!」

球を追う表情は真剣そのもので、まるで子供のようだと内心少し吹き出してしまう。出来るだけ返しやすそうな位置に丁寧に球を返すと、はまた真剣な眼差しで球を追いかけ…そして、タイミングを慎重に見極めて、再びラケットを振る。しかし白い球はラケットの横を通り過ぎて卓球台をワンバウンドすると、フローリングの床をコツンコツンと弾みながら、部屋の隅へと転がっていった。

「あれ?」

は目を丸くして肩を竦めると、スリッパでぱたぱたと駆けて球を拾いに行く。そして身を屈めて球を拾い上げると、少し照れたように頬を赤らめて卓球台へ戻ってきた。

「えへへ…失敗」
「はは…」

彼女の表情と動きで何となく予想はしていたが、どうやら卓球はあまり得意ではないらしい。元々特別運動神経が良さそうな訳でもないし、女の子ならこれくらいでも普通だろう。

「はい!これ」

は照れ臭そうに笑うと、身を乗り出してネット越しに球を俺の方に差し出した。それを受け取ろうと俺も何気なく身を屈めて腕を伸ばし…そして、視線の先にあったものに思わず目が奪われた。僅かにずれた浴衣の合わせ目から、の柔らかそうな胸がちらりと覗いている。一瞬時が止まったように俺はその胸元を見つめたが、やがてはっと我に返って視線を上げると、その手から球を受け取った。

「わ、悪い!俺…」
「ううん、わたし下手だね。頑張るね!」
「え…?あ…いや、そんなことねぇけど、」

彼女は俺の視線など気付いていないのか、小さな拳をぎゅっと握り締めて気合を入れている。俺は内心の動揺を悟られないように手の甲で鼻の先を少し擦りながら、視線を宙に逸らした。…気付かれてるとか気付かれていないとかの問題じゃなくて、ああいうの見ちまうのは褒められたことじゃねぇし。どんなに可愛くても、色っぽくても、そそられるほどエロくても。

「じゃあ…」
「うん!」

そのまま左手で卓球台へ球を落とし、再び右手のラケットで球をコートに入れてやる。は再び真剣な表情で球を視線で追いかけて、そっとラケットを振る。コツン、と音がして球が返って来た。一生懸命な仕草で球を追いかけて、失敗して拾いに走って…そんな一つ一つの仕草に見惚れながら、俺は多少無理な球でもできるだけ返してやった。

(しかし、可愛いな…)

露わになった首筋やちょっとだけ乱れた後ろ髪、鎖骨も細くて…肌も白い。肌蹴てちらちらと覗くふっくらと柔らかそうな胸元は、どんなに意識を逸らそうとしても思わず目がいってしまう。さっき覗き見た時にも感じたことだが…想像していたよりも、意外と…あるし。

(…欲求不満かよ、俺)

フローリングをコツン、コツンと弾みながら転がる球を追いかける桃色の後ろ姿を見つめながら、一つ小さく溜め息を吐く。振り返ったが嬉しそうににこにこ笑うものだから、俺の胸はちくりと痛んだ。

 

 


「やっぱり勝てなかったぁ…」

元々の実力差もあり、試合は俺の勝利で終了した。は体を動かして暑くなったのか、はだけた襟元を両手でぱたぱたと仰ぎながら眉尻を下げて「残念」と肩を落とす。俺は卓球台の向こうにいる彼女の元へ歩み寄った。

「すげぇ頑張ってたし、次やったらわかんねぇって」
「ほんと?…そうかな?」
「うん、マジで」

恐る恐る見上げてきた彼女の目は、俺の言葉に勇気付けられたのか僅かな期待に輝いている。単純なほどに素直でわかりやすいその反応につられて少し笑うと、俺は部屋の隅にあった自販機を指した。

「汗かいたし、何か飲む?」
「うん!」

歩き出すと、彼女は嬉しそうにこくりと頷いて俺の隣をくっついてきた。おもむろに財布から紙幣を抜き取り、自販機へ向かう。そして自販機の挿入口に紙幣を入れると、ピッという音と共にボタンにランプが点灯した。陳列された商品のラインナップに視線を走らせながら、俺は隣の彼女に尋ねた。

ちゃん、何飲む…」

言いかけたところで、浴衣の袖をちょい、と隣から軽く引っ張られた。「ん?」引っ張られるままに隣を振り返ろうとしたその瞬間、のスリッパの爪先がちょこっと背伸びをするのが見えて――そして、身を屈めた俺の頬に、その小さくて柔らかな唇がちゅっと軽く触れた。

「ちょ…、!」

思いがけない事態に気が動転して反射的に自販機に手をつくと、ピッとボタンが反応する音と共に、取り出し口にガゴンと商品が落ちた。「あっ…」彼女は驚いた様子で取り出し口を見つめていたが、しかし俺の心中はそれどころではない。唇が触れた頬から一気に熱が駆け巡って、耳朶の端までかあっと熱くなる。どくどくと高鳴る鼓動を必死に落ち着けながら、赤くなった顔で彼女を見下ろした。

ちゃん!な、なにやって…」
「え、罰ゲーム…」
「いや、あれは…別に…つーか、俺達…、」

言葉を返そうにも、頭の中は混乱し、出てくる言葉もしどろもどろだ。必死に頭を回転させて言葉を探しているうちに、自販機の返却口に硬貨が払い戻される音がちゃりん、ちゃりんと響き渡る。は少し照れたように頬を桃色に上気させて俯いていたが、やがて俺を見上げると小さな肩を竦めて少しはにかんだ。

「…でも、次は勝てるように頑張るね!」
「え…いや、…まぁ…」

俺が彼女に負かされる日がそう近く来るとは思えないが、もし俺が負けた時には、俺も彼女にキスをする事になるのだろうか。…いや、今の俺にはさすがにそれは出来ないし、出来たとしても恐らく冷静には振舞えないだろうから、鈍感なでも俺の気持ちを勘付く可能性が高い。だとしたらなおさら無理だ。勝ち続けるしかない。

(俺も絶対負けらんねぇな…)

一つ咳払いをすると、高鳴る胸を必死に落ち着けながら、身を屈めて取り出し口に手を突っ込み…俺は思いがけないその温度に反射的に指先を跳ね上げる。触れた缶は、熱い。「は…」おそるおそる掴んで取り出すと、そこには赤いパッケージに白地で『甘酒』の文字が描かれていた。

「…ますます温まりそうだなー…」


 



 
桃息吐息/20121015