一月の突き刺すような冷気に肩を竦め、小さく鼻を啜る。夕方の天下一通りは、様々な種の人間で溢れていた。啜り上げた鼻先をかさついた指の背で軽く擦りながら、俺は何気なく視線を持ち上げ…そして、目の前を通り過ぎた毛皮のコートの若い女に目を奪われる。これから仕事に向かうのだろうどこか浮かないその表情に、過ぎ去った記憶がうっすらと蘇った。

シマ内の店の女と付き合った事は何度かある。キャバクラ嬢や風俗嬢、中には無名のAV女優もいた。朝方、仕事終わりの彼女を迎えに行き、自宅に帰り、そして寝て…昼過ぎに起きて、夕方頃にお互いの仕事先へ向かう。その場の成り行き的な部分はあれど、境遇も生活も似ていたから、あえて歩み寄る必要もなかったし、俺の方も付き合った以上は彼女のことを真剣に考えていたつもりだった。…どれもそう長続きはせず、女の方から離れていったが。

考えるところが無かった訳はないが、半面そこまで酷く落ち込むこともなかった。元々それほど女に興味も執着も無いし、俺は俺で他にやることも山程ある。寄り添っていたものが離れていっても、当たり前に毎日は巡る。そして繰り返され駆け抜ける日々の先で、俺を待ち受けていたのがとの出会いだった。



辿り着いたニューセレナビルの前には、まだ待ち人の姿はなかった。視線を持ち上げて上階を見やれば、スカイファイナンスの窓からは室内の蛍光灯の明かりが外まで煌々と漏れている。冷えてかじかむ指先をスラックスのポケットに入れて握り締める。吐き出した小さな白い溜め息は、喧騒の中に掻き消えた。

最初のうちは、見てるだけで良かった。可愛いし、素直だし、良い子だし、堅気の女を見ているのは新鮮でもあった。彼女の人懐っこさもあり、徐々に打ち解けて仲良くなっていくうちに、気が付いたらすっかり彼女に入れ込んでいた。男の有無を勘ぐってみたり、彼女の異性関係がやたらと気になったり…俺は、まんまと惚れていた。

堅気の女なんて別世界の生き物だと思っていたから、惚れたところでどうすればいいのかわからなかったけれども、食事に誘ったり、家まで送ったり、夜景を見に行ったり――思い出しただけで、照れ臭くてこそばゆくなるけれでも。俺なりに精一杯、必死に、堅気の女である彼女と向きあって来たつもりだ。



ポケットの中で、かじかむ指先に煙草とライターが触れた。待ち合わせの時間まではまだもう少しある。俺はおもむろにポケットから煙草とライターを取り出す。ライターに刻まれたホテル『ヴァージン』の文字は、使い込まれて僅かに文字が擦り消えている。なんとなく手を止め、手にしたライターを見下ろしたまま、俺は彼女の笑った顔を思い出す。

恐らく、もうこんな子と知り合えるチャンスは二度とないだろう。おまけに、どこで他の男に目をつけられているかわかったもんじゃない。いい加減、言わなければ…と、思えば思うほど、喉まで出かかった想いは言葉にできない。真直ぐなその瞳に見つめられると、途端に怖くなる。もしその胸に、俺以外の心に決めた男がいたら。

――でも、もしそれが俺だったら…


「城戸さん!」

小走りのパンプスのヒールの音と一緒に、彼女の弾んだ吐息と声が背中に響く。振り返ると、が俺を見上げて笑っていた。マフラーに埋もれた顎先、柔らかそうな髪、僅かに桃色に上気した白い頬…俺に向けられた人懐っこい笑顔。胸を締め付けていたものが途端にふっと軽くなるような、でも胸がきゅんと締め付けられるような、不思議なこそばゆい感覚に襲われる。

ちゃん、」

――でも。俺を見上げるその目が特別きらきら輝いて見えるのは、俺が彼女に惚れているせいだろうか。時々俺を見て、特別幸せそうな顔で笑うのは、俺の勘違いだろうか。

(…俺のこと、好き?)

…なんて、それがわかりゃ苦労しねぇんだけど。


「待たせてごめんね!外、寒かったのに」
「いや、全然待ってないすよ。いま着いたところで」

(俺の方は、…)

手にしていたライターと煙草と一緒に、伝えられない言葉を無造作にポケットに突っ込んだ。隣で無邪気に微笑むは何も知る由はない。ただ、もし許されるのであれば、あと少しだけ。この焦るような、痛むような、そして甘く心地よい猶予を彼女の隣で感じていたい。



 

 



 ポケット/20121102