グラス三杯のお酒と煙草の匂いだけで、わたしの頭はすっかりのぼせていた。パンプスの踵がでこぼこと盛り上がったコンクリートの地面にぶつかって、歩くたびに不揃いな音を響かせる。視線を持ち上げれば、少し先を歩く杉内さんの大きな背中で、肩から引っ掛けられた灰色の背広が潮風に揺れていた。

出張先の港町は神室町を比べればかなりの田舎だったが、宿泊先のホテルの近隣は夜八時過ぎのこの時間でも割と明るく、人通りもあった。それでも街のネオンが眩しい神室町の夜とは違い、街灯から少し外れれば辺りは夜の暗闇に包まれている。薄暗いこの通りで同じ街灯に照らされれば、神室町の雑踏にいる時には知らなかった、わたしと杉内さんの距離が見えた。

息を吸い込めば鼻をくすぐる夜の夏風に、わずかに潮の匂いを感じる。お酒にのぼせて浮かれた頭で、視線の先にある大きな背中に妄想を巡らせてみる。その大きな背中にさりげなく触れられたら、どんなに胸がときめくのだろう。背広の上着を引っ掛ける逞しい腕に力強く抱き寄せられたら、どんなに幸せなのだろう。わたしはこっそりと急ぎ足で近づいて杉内さんの隣に並ぶと、その横顔を見上げて笑って問いかけた。

「杉内さん、」

浮かれたわたしの声に、杉内さんはわたしを振り返る。その眼差しが真直ぐにわたしに向けられているのが嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。杉内さんはわたしの表情を見るなりたちまち面倒くさそうに眉を寄せて小さく溜め息を吐くと、掠れた声で嫌々尋ねた。

「…何だよ、その面は」
「わたし、一緒にいられて嬉しいです」
「てめぇなぁ、遊びに来てんじゃねぇんだぞ」

眉間に皺が深く刻まれて、眼窩に深い影を落とす。わたしは肩を竦めて「えへへ」と少しだけ笑って、さりげなく隣を歩く杉内さんに寄り添った。俄かに近づく距離に気付かないはずは無かったけれども、杉内さんは面倒臭そうな表情をその顔に貼り付けただけで、あえてわたしを引き離すことはしなかった。

「杉内さん、」
「何だよ」
「わたし、今夜はずっと杉内さんと一緒にいたいです」

笑顔で見上げれば、杉内さんは先程までと変わらず、面倒くさそうな表情で冷たい視線をわたしに送り返していた。でも、そんな絶対零度の視線もお酒の勢いを味方につけたわたしの胸には届かない。杉内さんは寄り添うわたしを見下ろしたまま、呆れた様子で吐き捨てるように言った。

「ガキがなに馬鹿言ってんだ」
「だって、杉内さんと二人でいられて嬉しいんです。それに…」

それに、と言い掛けたところで頭を過ぎる。宿泊先の古びたホテルの自分の部屋。どことなく薄暗く、家具もアメニティも時の流れがあの空間だけ止まっているかのように古くて、何となく落ち着かない。おまけに壁紙には謎の黒い染みが無数に付着していて、なんとも不気味だ。お酒に飲まれてしまえばそんなことは忘れて眠れるかと思ったけれども、わたしの脳は案外鮮明にあの景色を記憶から呼び覚ましていた。

「…わたしの部屋、壁に変なシミがあって怖いし…帰りたくないんです」

言いながら思わず口ごもると、肩が触れ合う隣で掠れた笑い声が響いた。そっと見上げると、杉内さんの唇の端っこに僅かな笑みが浮かんでいる。そして杉内さんはゆっくりとわたしを見下ろすと、片眉を吊り上げて、低い掠れた声でからかうように言った。

「いい歳の女がガキみてぇなこと言ってんじゃねぇよ」
「………」

…わたしを子供だと言ったり、いい歳の女だと言ったり、杉内さんの言うことはよくわからない。

(…理不尽だよ)

しょんぼりと項垂れて視線を地面に落とすと、わたしの爪先のすぐ隣に上等な黒い紳士物の革靴が見えた。街灯の下で、わたしのパンプスの踵が、でこぼこと不揃いなアスファルトとぶつかって不規則なリズムを奏でる。並んでそれぞれのリズムを刻む二人分の爪先に視線を落としたまま、わたしは小さな溜め息と共に杉内さんに問いかけた。

「わたしって…子供ですか?」
「そういうしょうもねぇこと考えてんのがガキだっつってんだ」

杉内さんの言葉は予想を裏切らず、鋭く冷たい。でも、こうして寄り添って歩くことを許してくれたり、一緒にお酒を飲みに連れ出してくれたり、いつも少しだけ希望を残してくれる。近寄らせる気は更々ない癖に、気まぐれに懐に引き寄せるから、わたしの子供の胸は容易く焦がれてしまう。いっそのこと、引き寄せられるままにその懐に入り込んで、その心に触れてみたい。

不意に杉内さんの歩みが脇道に逸れて、わたしは視線を持ち上げる。見上げた先には、少し路地を入った薄暗い通りを自動販売機のランプの光が照らしているのが見えた。光に近づく大きな背中を追いかけて、ひょっこりと覗き込むと、そこには酒類が並ぶ自動販売機のディスプレイの明かりが辺りを照らしていた。杉内さんはスラックスに手を突っ込んで、寂れた景色に似つかわしくない上等な鰐革の小銭入れを取り出すと、硬貨を何枚か投入口に入れる。そして少しだけわたしを振り返ると、低く掠れた声で「、」とわたしの名前を呼びつけた。

「選べ」
「え…」
「てめぇの分だ」
「えっ…あ、ありがとうございます」

突然の杉内さんの行動に驚き、「すみません、」と少しかしこまりながら一歩自動販売機に歩み寄る。眩しいディスプレイに少し視線を彷徨わせ、そして目に付いた梅酒の缶のボタンを押した。ピッと小気味良い音が響いて、取り出し口に商品が落ちる。身を屈めてお酒の缶を拾い上げると、杉内さんは続けて自分も日本酒のボタンを押す。そして取り出し口から武骨な手で瓶を取り出すと、視線だけでわたしを振り返って、そして言った。

「それ一本だからな」
「え?」
「それ一本空けるまでの間だけ、ガキの我が侭に付き合ってやるよ」

杉内さんの言葉の意味を理解するまでに、何秒間かかったのだろうか。杉内さんの言葉が頭に届いた瞬間、のぼせていたはずの頭が急激に覚醒し、そして真っ白になった。杉内さんは踵を返すと、街灯に照らされた薄暗い通りをホテルに向かってどんどん歩き出す。わたしも慌てて早足で杉内さんを追いかけて、そしてもう一度その肩に寄り添った。杉内さんは厄介そうな表情を浮かべたけれども、やっぱりわたしを引き離そうとはしない。怒っているようにも笑っているようにも見える唇から零れ落ちた掠れた溜め息は、街灯が照らすアスファルトの足元に滲んで消えた。



 

 



 潮騒のワルツ/20121104