時刻はまだ夜六時を過ぎたばかりであったが、突然降り出した雨で、空はすっかり暗くなっていた。“金村興業”の文字が貼り出された煤けた窓ガラスに、細い雨粒が時折ぽつりとぶつかっては滴り落ちる。黒い革張りのソファに腰掛けた俺はしばらく窓の外を仰いでいたが、ゆっくりと室内に視線を戻す。テーブルの上には、Mストアで買った唐揚げ弁当があり、テーブルを挟んだ向こう側のソファには、唇の端に煙草を咥え、脚を組んで気だるげに週刊誌を読んでいる城戸の兄貴の姿があった。

「おす、いただきます」
「ん」

兄貴は煙草を咥えたまま、俺の方には視線もくれずに雑誌の頁を捲る。いつも通りの兄貴の態度は特に気にせず、俺はビニールから取り出した割り箸を割って、早速弁当に手を付けた。唐揚げと白米を口いっぱいに頬張りながらふと視線を持ち上げると、こちらから見る限り、丁度兄貴が眺めているのは袋綴じのグラビアアイドルのヌードの頁だ。思わず食い入るように覗き込もうとしたが、兄貴は表情一つ変えることなく頁を捲ると、咥えていた煙草を抜き取り、テーブルの上の灰皿に落とした。

「兄貴、…今の、それ!」
「ん?」
「あれっすよね?あの猫田曜子が脱いだっていう、今話題の…」
「ああ…これか」

俺が思わず身を乗り出すと、兄貴は指先で頁を捲り、先程の袋綴じ頁を開く。そして手にしていた煙草を再び唇の端に咥えると、少し頁を捲り、隣のヌード写真をもう一度確認した。ほとんど裸に近いような際どいショットに、手にしていた弁当も忘れて身を乗り出すと、兄貴も頁を捲る手を止めてヌードに視線を落とす。兄貴が咥えた煙草から立ち昇る細い煙が、事務所の天井に灰色のもやを作った。

「くー、半端ないすね!こんな女、死ぬまでに一度くらい抱いてみてぇっすよ!」
「まぁ…スタイル良いし、顔もまずまずってとこだな」
「マジっすか?すげぇ色っぽいじゃないっすか、猫田曜子!俺、好きなんすよ!」

「たまんねぇ!」と続けた後、俺は再びソファに腰を下ろして弁当を頬張る。兄貴は「そうだな…」と言ったきり、興味薄な様子でしばらく手を止めて袋綴じを眺めていたが、やがてすぐに頁を捲り、他の特集を読み始めた。俺は腑に落ちない感情と一緒に頬張った唐揚げをごくりと飲み込むと、ふと思い立って、テーブルの向こうの兄貴に尋ねた。

「…つーか兄貴、女作らねぇんすか?」
「は?」

俺の言葉に、兄貴は眉根を寄せて視線を持ち上げる。今俺を見ているこの瞬間の表情もなかなかだが、兄貴は顔も良いし、体も相当鍛えているし、シマの女からもそこそこモテる。でも、少なくとも俺がここに入ってからの三ヶ月の間、兄貴には女がいなかった。しかし、三ヶ月間兄貴を観察した俺は、俺なりにその理由を嗅ぎつけていた。割り箸を持った手を持ち上げながら、訝しげな表情で俺を見ている兄貴に向かって言葉を続けた。

「だってほら…兄貴の身近にも、可愛い子いるじゃないすか」
「は?誰」
「あそこの…何でしたっけ。…ほら、秋山とかいう貸し金んとこの子っすよ!」
「…ちゃんか」
「そうそう、それっす!」

片手に箸を持ったまま興奮して声を張り上げると、兄貴は顔を顰めて、いつもより一層低い声で「“それ”って何だよ」と凄む。その迫力のある形相に思わず「すんません!」と慌てて姿勢を正すと、俺は持っていた箸と一緒に少し頭を下げ…そして、兄貴の様子を伺いながら、そっと言葉を続けた。

「でもあの子、結構可愛いじゃないすか」
「ああ…まぁな」
「それに…俺にはどうも、あの子、兄貴に気があるように見えるんすよ」
「…は?」

俺の言葉に、兄貴は眉根を寄せて険しい表情を浮かべると、唇から煙草を抜き取る。そしてテーブルから顔を背けて深く煙を吐き出すと、少し癖のある掠れた声で吐き捨てるように言った。

「何馬鹿言ってんだ」
「いや、マジっすよ!見てりゃわかりますって!」
「…お前のそれのどこがアテになんだよ」
「いや!マジで、俺にはわかるんすよ!兄貴なら絶対モノに出来ますって!」

何とか説得しようと俺は声を張り上げたが、兄貴はうんざりしたような表情で俺を一瞥すると、そのまま視線を外して小さく溜め息を吐く。そして撫で付けられた茶色の髪を、煙草を持ったままの手で乱暴な仕草でばりばりと掻いた。兄貴は少し呆れている様子だったが、俺の方も引き下がれず、食い下がるようにもう一度問いかけた。

「でも…兄貴の方も、結構気になってるんすよね?」
「は?」
「だって、わざわざ家まで送ったりしてるじゃないすか」
「…お前、それどこで聞いた?」

俺の言葉に、兄貴の表情が変わった。兄貴は脚の上に広げていた雑誌を閉じてテーブルに放ると、俺と向き合うようにソファに座り直す。俺は兄貴の行動に反射的に姿勢を正しながら、自分の情報元を思い返そうとして…そして、凍りついた。
…まずい。兄貴に報告すべき重要も重要な一件を、今の今まですっかり報告し忘れていた。タイミングも悪く、今、ただでさえ兄貴の機嫌は悪い。げんこつの一発や二発飛んできてもおかしくない。
俺は覚悟を決めて、「すんません!」とテーブルの上の唐揚げ弁当に額を擦り付けるように勢い良く頭を下げる。そして、訝しげに俺を見る兄貴に、深く頭を下げたまま告げた。

「何だよ」
「兄貴にお伝えすんのすっかり忘れてたんすけど、昨日あの子、ここに来たんすよ」
「は!?いつ!?」

視界の端で兄貴の革靴の踵が床を力強く踏みつけたかと思うと、迫力のある怒鳴り声が部屋中に響いた。慌てて顔を上げると、こちらを見る兄貴の目が怒りにつり上がっている。俺は兄貴の剣幕にたじろぎ、しどろもどろになりながら言葉を続けた。

「兄貴が戻られる前なんで、夕方くらいに…」

一度言葉を切ると、俺は恐る恐る兄貴の様子を伺う。言葉こそ無かったものの、兄貴の怒りに満ちた鋭い眼光が、俺の言葉の続きを促していた。

「兄貴に家まで送ってもらったんで、その礼っつーことで菓子持ってきて…」
「で?」
「兄貴がいねぇことを伝えたら、“生ものだから皆さんで召し上がって下さい”って言われたんで…俺らで喰いました。すんません」

言い終えて頭を下げた瞬間、目の前のテーブルが乱暴にドンと蹴り上げられると同時に、頭上から辺り一帯に響き渡るような激しい怒鳴り声が叩きつけられた。

「馬鹿!何で早く言わねぇんだよ!」
「す、すんません!」

突如として響いた怒鳴り声と物音に、奥の部屋にいた大きな体躯の舎弟が慌てて部屋に飛び出してくる。そして俺と兄貴の表情を交互に見比べて事態を察したのか、肩を縮こまらせて部屋の隅に立った。兄貴は舎弟には目もくれず、苛立った仕草で煙草を灰皿に押し付けると、鋭い視線で俺を一瞥して言葉を続けた。

「他!何か言ってなかったか」
「いや、俺らには特に…ただ、」
「何?」
「…兄貴がいねぇって知ったら、すげぇ落ち込んでました」

どやされるか、げんこつが来るか…頭を下げたまま肩を縮こまらせて身構えていたが、待てどもやってくるのは沈黙ばかりだった。恐る恐る視線を持ち上げて様子を伺うと、兄貴は眉間に深く皺を刻み、険しい表情でじっと黙っている。その神妙な様子に思わず「あの…」と口を挟もうとしたが、兄貴は俺の言葉を遮るように「…もういい」と一言低く呟くと、テーブルの上の携帯電話を掴んで勢い良く立ち上がった。驚いて顔を上げると、兄貴は憮然とした表情を顔に貼り付けたまま、苛立った口調で短く言った。

「…煙草買ってくる」
「あ…すんません!煙草なら俺が…」
「来んな馬鹿!」

立ち上がって追いかけようとしたところを迫力のある声に一喝されて、俺は思わずびくっと肩を跳ね上げて立ち止まる。部屋の隅で大きな肩を縮こまらせていた舎弟も、同時にびくっと肩を跳ね上げた。兄貴は入り口近くにかけてあった刺繍入りの赤い上着を苛立った仕草で掴むと、そのまま扉を開け、激しく叩きつけるようにして外に出た。乱暴に閉められた扉の音にもう一度小さく肩を跳ね上げたが、俺は兄貴が出るなり慌てて窓に駆け寄ると、煤けた窓ガラスからホテル街を見下ろす。部屋の隅に立っていた舎弟も慌てて駆け寄り、俺の隣で窓の外を覗き込んだ。

降り出した雨に、夜のホテル街を彩るようにちらほらと傘が見える。緊張に肩を強張らせながら目を凝らしていると、赤いスカジャンに袖を通した兄貴が、傘の隙間を縫うように随分急いだ様子で駆け出していった。そしてその背中はいつも兄貴が煙草を買うMストアを通り過ぎ――、あっという間に夜の神室町に消えた。

嵐が過ぎ去ったようにしんと沈黙の降りた事務所に、雨粒が窓を叩く音がぽつり、ぽつりと小さく響く。俺は兄貴が消えていった方向に視線を向けたまま、独り言のように呟いた。

「兄貴…やっぱ、惚れてるよな」

俺の言葉に、隣に立っていた舎弟も小さく頷く。煤けたガラスをぼかした雨粒の向こうで、街のネオンと色とりどりの傘が虹色にぼやけた。



 

 



 煤けたネオンの虹と赤/20121120