神室町に突如としてゾンビの大群が現れたのは数日前の事だった。上海に出張している冴島さんの留守を預かっていた俺は、組の事務所で異変に気付いた。が働く店のある天下一通りを渦巻く黒煙に血の気が引き、彼女の安否を確認すべく、金庫に閉まってあった拳銃を手に天下一通りへ向かい…そして奇跡的に、崩れた瓦礫の下で縮こまっていたを救い出したのだった。

堂島会長が生存者を神室町ヒルズに集めているという噂を聞きつけ、を連れてヒルズに逃げ込んだのは昨夜の事だった。人々が集められたスーパーの片隅で、いつもより一際小さく感じるの手を強く握りながら、俺も組の事や、冴島さんのことを考える。こんな絶望的な状況に陥った時、冴島さんならどうするのだろうか。新井さんなら、どうするだろうか。

ぼんやりと思考を巡らせる俺の視界の隅に特徴的なデザインの上等な革靴の爪先が見え…そして、その革靴が、こちらに向かって軽い足取りで近づいてきたのが数秒前の事だった。


「なんやお前ら、こ〜んな所におったんかい!」
「!……ま、真島組長!」

頭上に響いた特徴的な声に咄嗟に顔を上げると、そこにいたのは直系真島組の組長であり、自分の組の組長である冴島の兄弟分もである真島吾朗の姿だった。仰々しい外形のショットガンを手に、隻眼をぎらぎらと輝かせながら近づいてくる真島さんに、慌てて立ち上がって深々と頭を下げる。隣に腰を下ろしていたも立ち上がると、俺の隣で一緒になってぺこっと頭を下げた。

「ご苦労様です」
「ああ?んな堅っ苦しい挨拶はええねん。ワシはお前らを探しとったんや」
「え?」

思いがけない言葉に視線を持ち上げると、真島さんの大きな右目が愉快気にすっとつり上がった。その意味深な笑顔に何となく嫌な予感がして思わず一歩後ずさると、俺の心理を見抜いたように、黒い皮の手袋に包まれた真島さんの大きな手が俺の肩をがしと掴む。そして唇の端をにやりと持ち上げると、真島さんは俺の目を真直ぐに見据え、言い放った。

「お前ら、オトリやれや!」
「…は?」
「オトリや、オトリ!ちょうどお前らみたいなサカリのついたカップルを探しとったんや」

突然に難解な話を持ちかけられた上にさりげなく罵倒され、俺は僅かに眉間に皺を寄せて訝しげに真島さんの表情を見上げる。真島さんは唇の端を持ち上げてにやりと笑うと、ショットガンを肩に担ぎながら、楽しげに言葉を続けた。

「実はヒルズの中にゾンビが紛れ込んでしもてなぁ。ここには堅気もおるし女子供もおる、このままにもしとけんやろ」
「…はい」
「せやから、オトリ使うて誘き寄せたところをズドン、ちゅう作戦を立てた訳や」
「はい。…え?…それで、どうして俺達が?」
「わからんやっちゃなぁ。せやから、自分らがサカリのついたバカップルやからや」

正面を切って改めて罵られ、俺は思わず顔を顰める。その表情に真島さんはヒヒッと楽しげに笑うと、言葉を続けた。

「大概こういうシチュエーションで真っ先にゾンビに狙われるんは、TPOをわきまえんサカリのついたバカップルっちゅうんが相場やろ?」
「ああ…映画でよくあるやつですね」
「せや!やから、話は簡単や。お前らがイチャこいてアンアンサカればゾンビが出る。そこをワシがこいつでズドン、や」
「はぁ…、え?」

真島さんの言う“作戦”の内容を理解しかけた瞬間、俺は一気に青ざめた。…いや、この人さも当たり前のように何とんでもねぇこと言ってんだ!動揺して思わず一歩後ずさると、そこを詰めるように真島さんも一歩前に足を踏み出す。そして俺の顔を覗き込むように見下ろすと、唇の端をにやりと持ち上げて続けた。

「お前らがデキとるっちゅうんは兄弟から聞いとる」
「え…?や…そりゃ、まぁ…」
「何、なぁんも難しいことあらへんやろ!いつも自分らが布団でやっとるようにアンアンやったらええんや」
「いや、…ちょっと、待って下さい!いくら真島さんの頼みとは言え、それはさすがに無理っすよ!」

必死に首を横に振ると、真島さんはつり上がった眉を顰めて「何や、ノリの悪い兄ちゃんやな」と呆れたように息を吐く。…いや、むしろ呆れてぇのはこっちの方だって!いくら真島さんの頼みとは言え、さすがにそれだけは首を縦には振れない。俺だけがオトリになるならまだしも、をこんな滅茶苦茶な作戦に巻き込む訳にはいかない。
俺がじっと押し黙っていると、真島さんは静かに俺から視線を外し――そして、俺の隣で丸い目をぱちくりさせながら自分を見上げていたを見下ろす。そしてその容貌を吟味するように数秒間まじまじと見つめたあと、ゆっくりと俺に向き直り、さらりと言った。

「しゃあないな。…ほな、俺がこの姉ちゃん抱いたるから、お前がゾンビやれや」
「は!?いや、それだけは絶対無理っす!」
「じゃあお前らやれや」

慌てて身を乗り出したところを言葉を遮るようにぴしゃりと言われて、俺は思わず言葉を呑む。もしこの場に冴島さんがいれば真島さんのこの暴挙も上手いこと止めてくれただろうが、皮肉なことに今ここにいるのは俺とだけだ。どう言葉を変えそうかと必死に頭を働かせていると、隣に立っていたが「あの、」と唇を開く。真島さんの視線が再びへ動いた。

「あの、わたしにできることがあるなら…」
「え…」
「もしそれで問題が解決するなら、わたし手伝います!」
「は…」

伏兵は思いがけないところに潜んでいた。隣から聞こえた耳を疑う言葉に目をひん剥いて振り返ると、は使命感に燃えた表情で真島さんを見つめている。慌てて言葉を撤回させようとしたが、俺が口を開くよりも先に、真島さんはすっとその目を細めて満足気に笑った。

「おお、ようわかっとるやないかい姉ちゃん!頼りになるでぇ」
「えっ…ちょっ…!ちゃん!」
「ほな、決まりやな。よっしゃ、早速準備に取り掛かるで!」
「ちょ…、ま、待ってください!真島さん!」

真島さんはにたりと笑うと、ショットガンを肩にかついでスーパーの中央へ向かって歩き出す。俺はその意気揚々と歩き出す後ろ姿に絶望を感じ…そして、がっくりと項垂れた。




 

真島さんに指定されたのは、食品売り場から少し離れたところにある高級ブティックの倉庫の中だった。指示通り、積み上げられた什器や段ボールの前にと向かい合って立つ。そして俺は彼女の小さな両肩をぐっと力を込めて掴むと、あらかじめ真島さんに指示されていた台本通りの台詞を読み上げた。

「も…もう、我慢できねぇ!ここなら誰も来ねぇから…やっちまおうぜ…」
「や、やだぁ!…た、武くんったら…え、エッチなことばっかりなんだから!」

用意された台詞の一つ一つに真島さんの悪意を感じながら、俺は積み上げられた衣服の上に彼女の体を押し倒す。すると、ひっくり返った勢いで、のひらひらしたスカートの裾が捲れ上がり、薄暗い倉庫の中にしなやかな太腿を大胆に晒した。は動揺したように少し息を呑んで身じろぎ、反射的に内腿をすり寄せる。俺はその艶かしい仕草を極力視界にとらえないようにしながら、なかばやけくそ気味にの胸をブラウスの上から触った。

(なんでよりによって…くそ、)

――そもそも。と顔を合わせた事自体が数週間ぶりで、何日か事務所に寝泊りしてからそのまま隔離エリアに入ったこともあり、もうここ数日間ずっと抜いていない。そんな状態でのこの芝居は、俺にとって相当な苦行だ。なるべくの体と下半身から意識を逸らすようにしていたが、俺の股間の方はこの状況下にあって、既にやや頭をもたげつつあった。
硬くなったそこを彼女に気取られないようにぎりぎりまで腰を引きながら、意識を逸らそうと頭の中で必死に関係ないことを考える。えー…冴島さんのいかつい顔。冴島さんのでけぇ背中。冴島さんのすげぇ白いブリーフ。冴島さんの木彫りの…

『何しとんねんボケェ!そんな芝居じゃなぁんも意味あらへんやろが!!』
『真島さん、落ち着いてください!そんな大声出したらこっちが気取られちまう』
『うっさいわ六代目!おい兄ちゃん、いつも通りさっさと手ぇ出さんかい!』

必死に下半身のそれを落ち着けようとする耳に、倉庫の奥の段ボールの陰でショットガンを構えて身を潜めている真島さんと堂島会長のやりとりが盛大に響いてくる。せめてこの芝居が真島さんや堂島会長から見られないことを祈ったが、やはりあちら側からはこちらがばっちり見えているらしい。俺は覚悟を決めるように一つ深呼吸して目を開けると、のブラウスの裾に手を伸ばし…そして、服の中に手を突っ込んでまさぐる。するとすぐに下着越しに、ふに、と柔らかい弾力のある膨らみが手のひらに触れた。

「…、」

一瞬、の肩がぴくっと揺れ、小さな唇が息を呑む。…まずい。そういう反応をされたらこっちのあっちも否が応にも反応してしまう。ぎゅっと目を瞑って頭の中で繰り返し冴島さんとの思い出を回想しながら、機械的な動きで下着越しに彼女の胸を何度も揉む。しかし揉めば揉むほど、冴島さんと過ごした日々の記憶に、の柔らかな肉体の記憶が重なってくる。事態も、そして俺の下半身の方もかなり緊迫していた。

(…つーか、ゾンビ早く!早く出ろって!)

しかし俺の懸命の祈りも虚しく、いまだゾンビが現れる気配はない。もはや今すぐにでも彼女の服から手を引っこ抜いてこの状況から解放されたい気分だったが、今この状況で手を止めようものなら間違いなく真島さんの怒声が飛んでくるだろうし、下手したら構えているショットガンをぶっ放されかねない。俺はもう一度深呼吸して精神を集中させると、彼女の素肌の上に手を滑らせて、その下着を押しのけるようにして裸の胸の膨らみに触れる。吸い付くような柔らかな弾力を手のひらに感じながらゆっくりと膨らみを撫でると、膨らみの中でもとりわけ敏感な柔らかな突起を手のひらが掠めた。(あ、)…と、思ったのは、俺だけではなかった。

「…っぁ…」

敏感なところに触れた瞬間、彼女の唇から押し殺したような小さな甘い声が漏れる。過去にベッドの中で何度となく耳にしてきたその甘い喘ぎ声に、脳天がぐらりと揺らぎ…そして次の瞬間、俺の股間の一物はスラックスの中で完全に天を突き上げた。頭の中から冴島さんの記憶が消え、目の前の彼女の甘い表情が俺の頭をたちまち埋め尽くす。ああ、もう駄目だ。もう限界だ。やる前から、どうせこうなるような気はしていた。わかりきっていたことだ。
堪え切れなくなっての首筋に鼻先を埋めると、敏感な突起をひっかくように指で刺激する。途端に彼女の腰がびくっと跳ね、押し殺した甘い吐息が耳を擽る。僅かに息を荒げながら触れた突起を指先で弄ると、投げ出されていたの腕が頼りなげに俺の背中をぎゅっと抱き締めた。

「き、城戸さん…」
「?」

俺の肩口に甘えるように額を押し付けて、は抑えた声で俺の耳元に囁く。少し顔を上げてその表情を覗き込むと、は目の淵いっぱいに涙を浮かべて俺を見ていた。

「…怖かった」
「、ちゃん…」

潤んだ瞳に引き寄せられるように俺はその目をじっと覗き込む。廃墟と化した天下一通りの瓦礫の陰で一人、怖い思いをしたのだろう。彼女が無事で、またこうして体を重ねることが出来て…それだけでも本当に良かった。大切な恋人を失わずに済んだのだから、それだけで――…組織の重役に勃起してんの見られようが、セックスしてんの見られようが、彼女を失うことに比べれば実に些細な…いや、本当に些細な。それはもう、すっげぇ些細な問題に違いない。
俺は頭をできるだけ無にしながら、吸い寄せられるように彼女の鼻先に鼻先で触れる。そして、その唇にキスしようと、ゆっくりと瞼を閉じた。――その瞬間。

「ほれ見い、六代目!まんまとかかりよったでぇ!ワシの言うた通りやろ!」
「さすが真島さんだ。…しかし、真島さんだけにいい格好はさせられませんよ」

突如として背後で響いた二人の声に顔を上げると、いつの間にやら倉庫の入り口には数体のゾンビが集まっていた。「…ちゃん!」咄嗟に体を起こして彼女の名前を呼ぶと、驚いて固まっているその肩を抱き寄せるようにして慌てて立ち上がる。そして銃を構えた真島さんと堂島会長がゾンビに向かって駆け出すのと入れ替わるように、の体を庇いながら、やや前傾姿勢のまま倉庫の奥に駆け込んだ。

その直後、何度か派手な銃声が辺りに響いたかと思うと、ものの数分で真島さんと堂島会長は俺達の元へ引き返してきた。「ヒヒヒッ、ええもん見せてもろたでぇ」と笑う真島さんの隣で、堂島会長は難しい顔をして「巻き込んでしまって、すまなかった」と俯く。俺はの肩を抱き締めたまま、「はは、…」と乾いた声で笑った。

 




――そして、事件から数週間が経った。その後、真島さんや堂島会長の活躍もあり、神室町はすっかり平和を取り戻していた。冴島さんも上海から戻り、不在の間に溜まっていたデスクワークを地道に片付けている。山積みになった書類を整理していた冴島さんは、不意に一つの封筒を手に取って眉を持ち上げる。そして顔を上げると、声を張り上げて俺を呼んだ。

「おーい、城戸ちゃん」
「あ…はい!」

隣室で組の倉庫の整頓をしていた俺は手を止めて立ち上がると、扉を開けて奥の椅子に腰掛けた冴島さんの元に向かう。冴島さんはゆっくりと椅子から立ち上がると、手にしていた上質な封筒を俺に向かって差し出した。

「すまん、忘れとったわ。…これ、城戸ちゃん宛てや」
「は?…俺に、ですか?」
「なんやようわからんけど、兄弟が城戸ちゃんに渡せぇ言うてしつこくてな」
「兄弟って…ま、真島組長ですか」

恐る恐る封筒を手の中で裏返すと、そこには『真島建設代表取締役社長 真島吾朗』の文字が印刷されていた。目に飛び込んできた『真島』の文字に、一瞬にして神室町ヒルズの倉庫での嫌な記憶が蘇る。たかが封筒とは言え、『真島』の文字を背負えば鬼が出るか蛇が出るか…恐る恐る封を開けてそおっと中を覗き込み――俺は思わず目を見開いた。

「なんや、城戸ちゃんに世話んなった礼や言うてたわ」
「…、は」

ちらりと見えた文字は、気のせいではなかった。慌てて手を突っ込んで取り出すと、封筒の中に入っていたのは、神室町からろくに出たことがない俺でも名前を聞いたことがあるような、超有名高級温泉旅館の宿泊ペアチケットだった。思いがけないプレゼントに、チケットを持った手が思わず震える。冴島さんは訝しげな表情を浮かべて首を傾げながら、言葉を続けた。

「…しかしあの兄弟が、よりによって城戸ちゃん宛てにこんなもんよこすなんて、珍しい話やな」
「えっ…そ、そうっすよね…」
「兄弟のことやし、なんや怪しいもんちゃうかと思うたが…考えすぎやったな」
「いや…、むしろ俺には勿体ねぇくらいで、」

…正直。あの時、真島さんは体に鬼か悪魔でも宿しているんじゃないかとすら思ったくらいで、まさかこんな形で気を回してもらえるとは思ってもみなかった。さすが東条会でも最大規模を誇る直系真島組組長、そして冴島さんの兄弟分。手にしたペアチケットに、との温泉旅行の計画が頭の中でみるみる広がっていく。冴島さんが出張の間事務所に詰めていたこともあり、タイミングも良く休みをもらえる話になっていた。

「冴島さん。…俺、誤解してました。真島さんって…」

言いかけたところで、手にしていた封筒からはらりと紙が落ちた。まだ何か封筒の中に入っていたらしい。俺は慌てて床に落ちたそれを拾い上げ…そして、凍りついた。床に落ちていたのは、神室町ヒルズの倉庫の物陰で、俺がに覆いかぶさり、服の中に手を突っ込んで胸を弄っているところを収めた写真だった。その衝撃的な画像に、一瞬にして過去の記憶が蘇る。神室町ヒルズを建設しているのは真島建設で、これは恐らく賽の花屋の監視カメラのキャプチャー画像で、そのシステムを管理しているのは――

(…ってまさか、あん時の場所の指定…この写真の為かよ!?)

「…ん?兄弟が何やて?」
「いや!ちょっ…何でもないっす!」

訝しげに手元を覗き込まれ、拾い上げた写真を反射的に封筒の中に突っ込もうとして…俺は硬直した。封筒の中には、微妙に角度やシーンを変えた俺との濡れ場の写真がまだ何枚も入っている。真島さんや堂島会長には最悪なシーンを生で見られてしまったが、何としても冴島さんだけには今回の件を知られたくない。俺は手にしていた封筒を慌ててスラックスのポケットにねじこむと、「は、はは…」とぎこちない笑顔を浮かべて取り繕う。必死に誤魔化そうとする俺の頭の片隅で、鬼の姿をした真島さんが意地悪く笑っているのが聞こえたような気がした。



 

 



 とある若衆の憂鬱/20121121