3学年学級対抗全員リレー、体育委員の決定により最終走者から数えて五番目という絶妙に重要なポジションについたは、背後から追い上げてきた男子生徒に接触されて転倒し、それまで3位だった順位を8位まで落とすことになり、その結果、後の走者が必死の追い上げを見せたものの、クラスの順位は5位に終わってしまった。びっこを引いて泣きながら召集場所にやって来たを保健室に連れて行くという名目で連れ出して、仁王は彼女と共に、中庭の脇道の木陰に佇んでいた。


 
 

 
泥だらけの膝小僧から血を流しながら肩を震わせて悔しそうに泣くの隣で、座り込んだ仁王はその横顔をぼんやりと見つめていた。穏やかな五月の風が吹き抜けて、彼女の白いはちまきがひらひらと揺れる。体育祭定番のポップミュージックに乗せた呑気な実況中継やら生徒の歓声やらが、どこか遠くの世界の音のように聞こえている。仁王は視線を彼女の膝に落とす。泥と血が裂けた皮膚の上で混じりあって、丸い滑らかな膝の上で滲んでいた。彼女は小さく肩を震わせながら、しぼりだすような声で言った。

「……ごめ、なんか、わたし」

彼女は嗚咽の混じった声で「ほんと、迷惑ばっか」と続けると、また小さな呻き声をもらして泣き出す。その奇妙な獣のような呻き声にも狼狽えることなく、仁王は「怪我人に付き合うためにおるんが保健委員よ」といつもと何ら変わりのない飄々とした口調で返した。は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、「仁王、優しいね」と、少しだけくしゃっと笑った。仁王はその表情をどこまでも真直ぐな目で見つめ返して、「よう言われんのう」と一言、淡々と返した。

の女っぽい頬の丸い曲線を、涙の筋が再びつうと伝って落ちる。仁王は静かにを見つめたまま、何も言わなかった。はしばらく小さな呻き声を漏らして肩を震わせていたが、やがてごしごしと目元を拭うと、静かに顔を上げる。

「…ごめん、仁王、なんか、付き合わせちゃって」
「構うことなか」
「ううん、でも、やっぱ」
「俺の好きでおるんじゃ、気にせんと」

は一瞬驚いたように目を丸くしたあと、「そっか」とちょっと安心した様に溜息をついて、「ありがとう」と微笑む。仁王はを見つめ返して「プリッ」と呟くと、投げ出していた脚のくるぶしの辺りを掴んで、そのまま引き寄せてあぐらをかいた。爽やかな風が吹き抜けて、緑がざわざわと音を立てる。はしばらく黙って泥だらけになった自分の白いスニーカーの先を見つめていたが、やがてそっと顔をあげてにこっと微笑むと、隣の仁王を見て、言った。

「…ちょっと、顔洗ってくるね。あと、膝も、流してくる」
「…ピヨ」

「洗ってからいかないと、先生に怒られちゃうし」。そう言ってぐちゃぐちゃの顔で笑って、怪我していない方の片足で立ち上がったは、くるりと仁王に背を向けると、びっこを引きながら水道に向かって歩き出した。仁王は黙ってその後ろ姿を見送ろうとしたが、不意に「」とその名を呼ぶと、すっと立ち上がって、静かにその背中に歩み寄る。そしてが涙に潤んだ目をわずかに丸くして「なに?」と振り返った瞬間、その腕を掴んでぐっと自分の腕の中に引き寄せると、そのまま力を込めてその体を抱き締めた。そして驚愕の表情で目を見開いて硬直するのその耳元に唇を寄せると、ひそめた声で囁いた。

「…10秒じゃ」
「え?」
「…10秒間だけ、この学年一の色男、仁王雅治に抱き締められることを許すナリ」

仁王の腕の中で、は真っ赤になって目を見開いたまま硬直していたが、やがてその目を潤ませて小さくしゃくりあげると、途端に声を漏らして泣き始めた。小さなうめき声をあげるの頭を手のひらでぽんぽんと軽く撫でながら、仁王は軽くその前髪に唇を寄せる。そして静かに息を吸い込んでそっと目を閉じると、あやすようにその背中を撫でてやった。

(……わたしはイチコロでダウンよ)

グラウンドから響くやけに音質の悪いピンク・レディーのメロディも、100m走のスタートの乾いた銃声音も、木々のざわめきも、生徒の歓声も、一瞬のうちに青空の彼方へ吸い込まれていく。それでも彼女の小さくしゃくり上げる声は風すら触れられることはなく、ただ静かに仁王の胸の奥へと滲んでゆくのだった。

 

(もうあなたにあなたに溺れる…ピヨ)

 
 
 
 

10seconds./20040922