“故郷”のオーナーの趙さんの淹れるお茶は一級品だと谷村さんから聞いていたけれども、確かにそのお茶はわたしがいつも飲んでいるお茶とは全くの別物だった。透き通るような薄金色をしていて、鼻先を寄せれば立ち上る香りは花のように甘く、一口飲めばその舌触りの柔らかさと風味のまろやかさに驚いた。 趙さんは「マーちゃんが女の子を連れてきたから、今日の茶は特別だ」と嬉しそうににこにこ笑って、このお茶が金木犀の花と茉莉花の葉のお茶で、わたしの為にわざわざ特別にブレンドしたものだと教えてくれた。テーブルを挟んだ向かいに座っていた谷村さんは、一口飲んで「…少し甘いな」と憎まれ口を叩いていたけれども、その表情を見れば、谷村さんにとって趙さんは安らげる家族のような相手なのだとわかった。 「…、寒っ」 ドアが開くなり勢い良く吹き込んできた冷たい風に、谷村さんは少し背を屈めて襟首を撫でた。谷村さんの背中に隠れて風をやり過ごしながら、わたしも後を追って亜細亜街の路地に出る。辺りはもうすっかり暗くなり、頬を撫でる風もますます冷たさを増している。ふと息を吸い込めば、どこからともなく料理の匂いや油の匂いが漂ってきた。 辺りを見渡せば、狭い空間にひしめき合うように沢山の小さなお店が並んでいる。ところどころにぶら下がった赤橙の提灯やちかちかと点滅する看板がその狭い路地をぼんやりと照らしていた。タイル貼りの壁には褪せた中国語のポスターが貼り出され、足元には空のビールケースやタンクが乱雑に積み上げられている。そこら中に置かれた荷物やゴミで、細い路地は時折ますます狭くなっていた。 こうして歩く路地は視界も匂いも表通りとはまるで違って、どこか違う国にでも迷い込んだかのような気分になる。もし谷村さんの姿を見失ってしまったら、わたし一人ではきっと表通りに出られないだろう。ポケットに手を突っ込んで路地をどんどん進んでいく谷村さんの背中を追いかけながら、あっという間に冷たくかじかんでくる指先をぎゅっと握り締めた。 古びた鉄製の階段を上がり、蛍光灯が照らす路地を建物に沿って進む。角を曲がり、開け放たれたままの扉をくぐって建物に入る。一歩建物に入れば、廊下は小さな蛍光灯が天井に幾つか点いているだけで、周囲はぼんやりと薄暗い。突然の暗闇に僅かに躊躇していると、前を歩いていた谷村さんは立ち止まり…そして、わたしを振り返った。 (…?) 何気なく視線を持ち上げたその瞬間、谷村さんはポケットに突っ込んでいた手を伸ばして、わたしの手を引き寄せるようにしてさりげなく握った。ポケットの中にずっとしまっていたせいか、その手はこの寒さの中でもまだ温かく、冷えてかじかんだわたしの指先も長い指で包むように優しく温めてくれる。突然の仕草に驚いて見上げると、谷村さんはからかうように楽しげに目を細めてわたしを見下ろしていた。 「こうしてないと、また転ぶだろ」 ――ほんの数分前。故郷を出る際に一瞬躓いたことに、あの時谷村さんは本当は気付いていたのだろう。 (…えっ?) 予想もしていなかったその動作に、わたしの体はいとも容易く谷村さんの腕の中へ引き込まれた。微かな明かりさえ遮られる扉の陰の薄闇で、わたしは驚きの表情を貼り付けたまま谷村さんを見上げる。しかしわたしの瞳が谷村さんの表情を映すよりも早く、谷村さんは蛍光灯の明かりを背に身を屈めると、腕の中で縮こまっているわたしの唇に素早く口付けた。ちゅ、と軽く吸われたところを確かめるようにもう一度ちゅ、と吸われ、触れ合う粘膜にたちまち甘い金木犀の香りが広がる。谷村さんは名残惜しげにゆっくりと唇を離すと、互いの唇が微かに触れ合う距離で、掠れた声で囁いた。 「…これでも我慢してたんだ」 呟くようなその声に僅かに照れたような響きを感じて、時間差でわたしの方までじわじわと耳が熱くなる。谷村さんは「…ハァ」と小さく溜め息を吐くと、見上げるわたしの頬にその頬を寄せて、そっと瞼を閉じた。頬に触れる肌の温度と、首筋に触れる微かな吐息に、全身が心臓になったかのようにどきどきする。 靴の音に続いてわたしの背中で響いたのは子供の声だった。突然の事態に、一瞬にしてさあと顔から血の気が引く。――まずいところを見られてしまった。それも子供に、こんな暗闇の物陰で。…思い返せば、故郷に向かう最中にも外で駆け回って遊んでいる子供達を見かけたし、この辺りは子供も多いのかもしれない。慌てて振り返ろうとしたけれども、谷村さんはわたしの体をしっかりととらえたまま身動ぎ一つしない。慌てるわたしをよそに落ち着いた様子で小さく溜め息を吐くと、谷村さんは囁くような潜めた声でそっと子供に告げた。 「…请秘密」 二人の間で交わされたのは、わたしの知らない言語だった。でも、語りかけた谷村さんの声がどこか柔らかく優しく聞こえたのは、その言葉の発音のせいだけではないだろう。谷村さんの言葉を聞いた子供は嬉しそうに返事をすると、すぐさまぱたぱたとどこかへ駆け出していった。 「大丈夫だ。あいつら、口は堅いんだ」 耳に届いた柔らかい声に、しどろもどろになりながらもそっと見上げれば、谷村さんは優しい瞳でわたしを見つめていた。長い睫毛に縁取られた黒い瞳の奥には、どこか照れたような仄かな色づきもあって。 「…うん」 ――灯りの数も少なく薄暗いとはいえ、人通りは多い廊下なのだろう。そんな短いやりとりをする間にもまた、少し離れたところからとんとんと階段を上がる足音と、誰かの喋り声が響いてくる。徐々に近づく誰かの気配を背中に感じながら、その優しい眼差しにつられるようにこくりと頷くと、谷村さんは唇の端っこを持ち上げて子供の様な表情で少しだけ笑う。そして、互いの唇に微かに残った甘い香りに引き寄せられるように、暗闇に隠れてもう一度だけキスをした。
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