仕事を終えた杉内さんが体調を崩して寝込んでいたわたしの部屋を訪れたのは、夜八時を過ぎた頃だった。上等なコートの上に外の冷たい空気を纏って、強面に似合わない老舗の果物屋の袋をわたしの部屋のテーブルに置いた杉内さんは、部屋着姿のわたしを一瞥すると低い声で「てめぇで切れよ」と一言短く言った。その態度はいつもと変わらず冷たくそっけなかったけれども、わたしの表情はすっかり綻んでいた。 「杉内さん!」 わざわざ立ち寄ったにも関わらず、杉内さんは用事を済ませた途端、あっという間に玄関へ引き返していく。その後ろ姿を慌てて追いかけようとしたけれども、まだ熱が下がりきっていないせいか、それとも久しぶりに歩いたからか、わたしの足取りはおぼつかない。杉内さんは背後の気配でわたしの様子に気付いたのか、廊下を進む足を静かにゆっくりと止めた。よいしょ、と懸命に足を運んでその背中に近づくと、上等なコートの背中にぎゅっと額をくっつける。微熱にのぼせた額に、外の冷たい空気に冷えたコートの感触が心地良い。大きな背中にそっと腕を回して甘えるようにしがみつくと、小さな声で呟いた。 「来てくれて、嬉しいです」 わたしの言葉に呆れたのか、しがみついた肩甲骨の辺りが溜め息を吐くようにゆっくりと上下するのが伝わってくる。杉内さんは背中にわたしをくっつけて玄関の方を向いたまま、少し癖のある掠れた低い声で言葉を返した。 「…。お前、誰彼構わずそういう真似すんじゃねぇぞ」 背中越しに響いた声はやはりそっけなかったけれども、その言葉とは裏腹に、杉内さんは甘えるわたしを引き離そうとはしなかった。密かに肺深く息を吸い込めば、冷たい空気に杉内さんの煙草の匂いがほのかに香る。久しぶりの杉内さんの匂いを確かめるように、わたしはコートの背中にぎゅうと顔を埋めて呟いた。 「誰でもじゃないです。杉内さんだからです」 掠れた声で低く呟くと、杉内さんは突然その身を翻した。驚いて顔を上げた途端、その体に回していたわたしの手は筋張った大きな手に引き寄せられ、わたしの体は廊下の壁に力強く押し付けられる。退路を塞ぐように頬のすぐ脇に手をつかれ、おずおずと見上げれば、向こうを向いていたはずの杉内さんの顔が静かにわたしを見下ろしている。身動き一つで唇が触れそうな距離で、杉内さんの鋭いその視線はわたしの目を静かに見据えていた。 「…痛い目見てからじゃ遅ぇんだぞ」 太く逞しい首に、ごつごつした男っぽい喉仏。厚い唇に、がっしりとした鼻筋、鋭い眼光、深く刻まれた眉間の皺。そっと見上げた目の奥には怒りも動揺もなく、どこまでも冷静だった。その目を見れば、この行動が感情にまかせた衝動ではなく、わたしを試し、そして何かを警告しようとしているのだとわかった。――、けれども。 (…杉内さん、) …杉内さんの目がこんな風にわたしを見つめることなんて、いつもなら絶対有り得ないから。相手にされず、女として見られることもないまま視線を逸らされるくらいなら、たとえその眼差しが冷たくとも、それがわたしへの警告だったとしても、その目に見つめられていたほうがずっといい。 「…杉内さんなら、いいです」 わたしは一言だけ呟くと、小さく息を吸い込んで目を瞑った。わたしには、今更恐れるものなど何もなかった。呆れられることも、奪われることも、杉内さんを好きになった時から全て覚悟していたから。 「…あれ?」 一人廊下に取り残されて、わたしも慌ててその背中を追いかける。杉内さんは玄関で身を屈めて上質な革靴に爪先を入れながら、こちらを見向きもせずに呆れたような冷たい口調で言い放った。 「馬鹿な真似する気力があんなら、洗濯物くらいしまっとけよ」 思いがけないその言葉に、何となく嫌な予感がしておそるおそる背後を振り返ると、廊下の先に見えるリビングには、体調を崩す前に部屋に干していた下着がぶら下がったままになっていた。それも、よりによってパステルカラーのドット柄の、子供っぽいデザインの上下組だ。(さ、最悪…!)一瞬にして青ざめるわたしに、杉内さんは背を向けたまま少しだけわたしを振り返って、掠れた声で言った。 「忠告したからな」 思いがけない言葉に慌てて振り返ったけれども、杉内さんはもうわたしに背を向けていたので、一体どんな表情をしていたのかは見られなかった。立ち上がった杉内さんの大きな背中を見上げると、杉内さんはもう一度少しだけ顔をこちらに向ける。そして鋭い目をすっと細めると、からかうような甘い声で言った。 「いつでも止めてやれるほど俺は甘かねぇぞ」 その唇の端が少しだけ笑っていたから、わたしは思わず言葉を呑んだ。滅多に見られない笑顔と、思いがけないその言葉に途端にかあっと頬が熱くなる。途端にしどろもどろになるわたしに、杉内さんは更に目を細めて笑った。 最後に一言だけ短くそう言って、杉内さんはわたしに背を向けてあっという間に玄関の外へ出て行ってしまった。ぱたん、と閉じた扉から冷え切った冬の風が部屋にひゅうと吹き込む。杉内さんが部屋を後にした途端、たちまち膝から力が抜けて、わたしは冷たいフローリングの廊下にぺたんと座り込んだ。肩越しに見た杉内さんの笑顔が、甘い言葉が、何度も何度も頭の中を駆け巡る。下がりかけた熱はほんの数分の出来事でわたしの耳朶の端にまで逆戻りして、かすかに残った煙草の匂いにくらくらと眩暈がした。
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