ひんやりと頬を撫でる秋の涼しい夜風に、夏が通り過ぎたことを知る。しんと静まり返った夜の住宅街に、並んで歩く二つの足音が響いている。上着のポケットに手を突っ込んで何気なく隣を見下ろせば、ちょうど俺を見上げていたらしいと視線がぶつかった。彼女の家にも程近い住宅街の狭い道で、街灯の蛍光灯の白い光が静かに彼女の頬を照らしている。ネオンの鮮やかな色彩がビルの壁に反射して降り注ぐ神室町の通りで見るのとは違い、小さな白い明かりに照らされたその顔を見つめれば、まるで彼女を一人占めしているかのような錯覚に陥る。見下ろした彼女の人懐っこい丸い目は、俺を見上げてぱちぱちと何度か瞬きをしたあと、しょんぼりと地面に落ちる。思いがけない仕草に眉を持ち上げると、はその唇を少し尖らせて、独り言のように呟いた。

「…今日ももう終わりなんて、なんだか寂しいです」
「え?」
「もっと一日が長かったらいいのに」

再び風が吹いて、彼女のさらさらした茶色の髪がその頬を撫でるように横顔を重なった。背の低いフェンスの向こうで、公園の常緑樹も風にその葉を揺らしている。吸い寄せられるようにその横顔をじっと見つめていると、彼女は吹き抜ける夜風の中でそっと俺を見上げて、そして少し照れ臭そうに笑って、唇を開いた。

「…もっと一緒にいたいです」

予想もしていなかった言葉に、俺は目を見開いたまま硬直し…そして、数秒間の沈黙の後、たちまち赤くなった。吹き抜ける風はひんやりと冷たいのに、頬はおろか、耳朶の端まで火が出るほど熱い。彼女の甘い言葉が何度も頭の中をぐるぐると回り、嬉しさと恥ずかしさで胸の奥がくすぐったくなる。惚れた女の言葉ひとつでこうも容易く舞い上がる自分に情けなさを覚えながら一つ咳払いをすると、必死に取り繕ったすました表情で彼女に言葉を返した。

「…そういうの、男ってすげぇ簡単に勘違いするんで、」
「え?」

夜道で辺りも薄暗く、照らすのが蛍光灯の白い薄明かりのみだったのが救いだろう。これだけ暗ければ、俺の頬が熱を持っていることを勘付かれる可能性も低いはずだ。ポケットから抜き出した指先で鼻先をごしごし擦りながら言葉を続けた。

「…勘違いするんで、」

…しかし、もう一度繰り返したところで言葉に詰まった。咄嗟に照れ隠しで説教じみた態度をとってみたものの、特に続きは考えていなかった。

脳裏に“そういうのは俺だけにしといて下さい”と本音が浮かんだが、とてもじゃないけれどもそんな事を彼女に言える訳もない。そもそも俺は彼氏でもないし、かといって友達かと聞かれればそれすらも答えに詰まるレベルで。
俺は動揺を悟られないように視線を逸らして頭をばりばりと掻くと、呟くように言った。

「…気をつけた方がいいっすよ」

…我ながら無難なところへ逃げたな。と、根性の無い自分に内心深く溜め息を吐くと、は丸い目をそっと細めて、幸せそうに笑った。

「はい!わかりました」

素直な返事に、思わず唇から乾いた笑いが零れる。俺の濁った返答とは対照的に、彼女のその笑顔には一片の迷いもなかった。

(つーか、わかっちゃうんだな、そこ…)

正直なところ、わかってほしいような、わかってほしくないような微妙なところだったけれども。もしこれをきっかけに、今後の方から甘えたり懐いたりしてくれなくなったら、それはそれで俺の方が立ち直れなくなりそうだ。

――そもそも、こんな良い子と巡り会えたことも、彼氏がいない状態だったのも奇跡的で、他の男に目をつけられてやいないかと日々焦っているくらいで。でもその反面、良い子だからこそ焦って手を出したくないのもある。

(別に俺の前では、わかってくれなくていいんだけどな…)

今夜も彼女の住むマンションの下でいつも通りに別れれば、俺は極道の世界へ、彼女は堅気の世界へ戻る。住む場所も生きる世界も違うし、会える時間さえも限られているから、“もっと一緒にいたい”なんて言われればそれは俺だって舞い上がる。…もしかしたら俺と同じ想いが、その胸にあるんじゃないかって。

幸せそうに俺を見つめる彼女の笑顔に、今度こそ勇気を振り絞って、喉まで出かかった言葉を口にしてみる。あくまでもさりげなく、俺は視線を正面に戻しながら、やけにかさつく唇をゆっくりと開いた。

「でも確かに、時間が足りねぇっつーか…」
「え?」
「…正直、俺だって帰したくねぇっすよ。ちゃんのこと」

言ったところで、隣を歩いていた彼女の爪先がぴたっと止まった。つられるように俺も立ち止まって、振り返り…そして、目を見開いた。蛍光灯の白い明かりに照らされた彼女の瞳は、驚いたように見開かれたまま、潤んできらきらと輝いている。その瞳が、おずおずと、でも真直ぐに俺を見上げる。そしてその小さな唇は、微かに震える声で「城戸さん、」と俺の名前を呼んだ。

「また…次も、誘ってくれますか?」
「え?」
「デート…」
「デ…」

彼女の言葉を反芻しようとして、俺の唇は反射的に言葉を呑んだ。そして唾をごくりと飲み込むと、彼女の言葉を確認するように、慎重に言葉を選びながら、尋ねた。

「…、誘ってもいい?」

俺の言葉に、彼女はこくりと頷いた。その素直な仕草と照れたような表情に、俺の心は一瞬にして天高く昇る。俺は浮かれきった心を必死に抑えながら彼女を見下ろすと、胸の内に込み上げる喜びを隠し切れないまま、全身全霊を込めて彼女に言葉を返した。

「…ぜってぇ誘います」

俺の言葉に、彼女の表情が嬉しそうにぱっと綻ぶ。白い蛍光灯の明かりがその頬を照らし、長い睫毛の影を作る。彼女のその目に見つめられ、微笑まれて、俺の顔は赤くなっているに違いないが、夜の薄闇の中ではきっと彼女に気取られることもない。立ち止まっていた彼女の肩をさりげなく抱き寄せるように歩き出すと、彼女が嬉しそうに寄り添ってきたので、俺の胸の奥は熱を持ってじり、と焦がれる。鼻先をくすぐる秋の冷たい夜風に、彼女の甘い香りがふわりと柔らかく重なった。


 

 



 甘い帰り道/20121223