「泊めてくれ」

その頬が僅かに赤いのは、今宵の凍えるような寒気のせいだけではないだろう。静かな月明かりを背にわたしを見下ろすその目は据わっていて、その唇から語られた言葉はどこか舌足らずな響きがある。ほのかに漂う谷村さんの清潔感のある香りの中に、わたしはお酒と煙草の匂いを感じ取っていた。

「え…う、うん」

“東京の最低気温は0度、夜はこの冬一番の冷え込みになるので、あたたかくして寝ましょう!”

今朝、テレビで見た天気予報を思い出して、いつもの薄手のジャンパーという軽装の谷村さんを急いで部屋に招き入れた。彼が玄関に一歩上がると、一緒に入り込んできた冬の冷たい空気に辺りがひんやりと冷える。わたしは思わず肩を縮こまらせたけれども、当の本人はその体に冷気を纏ったまま、特に身じろぐでもなく静かにわたしを見下ろしていた。

「急にどうしたの?」

最近は次から次へと事件が立て込んだこともあって、谷村さんと直接こうして会うのは久しぶりのことだった。彼の格好を見れば、仕事終わりにどこかのバーでお酒でも飲んで、その足でここに来たことは想像できた。何の連絡もなしに突然訪ねてくるあたり、忙しい状況は変わっていないのだろう。

「とりあえず、上がって…」

黙り込んだまま玄関で仁王立ちしている彼に、スリッパくらい用意しようと僅かに身を屈めた瞬間、わたしの腕は彼の手にぐい、と力強く引き寄せられた。思いがけない彼の仕草に、わたしの体はよろけるように谷村さんの腕の中に引き込まれる。谷村さんはしなやかな長い腕でわたしの体を抱き寄せると、そのままわたしの首筋に顔を埋めた。

「なぁ、」

耳元で、少しくぐもった甘えたような掠れた声が響く。夜風にひんやりと冷たくなった彼の焦茶色の柔らかな髪がわたしの頬の熱を冷ます。呼吸をするたびに立ち上る心地良い香りとお酒の匂いに身を縮こまらせて、わたしは谷村さんの腕の中で言葉を呑んでいた。

「好き?」
「…えっ?」
「好き?」

思いがけない彼の言葉に思わず聞き返したけれども、彼は譲らず同じ調子で同じ言葉を繰り返してきた。抱き締められたこの体勢では彼の表情は窺い知れないけれども、頑固に質問を繰り返す彼の言葉はどこか舌足らずで、甘えるようで、まるで子供のように思える。いつもの彼らしくない行動に動揺しつつも、わたしはされるがままに抱き締められたまま、「うん」と小さく頷いた。

「…伊達さんに」
「?」
「仕事終わって飲んでたら、と会わないのかって聞かれて」

…“伊達さん”というのは、確か今の彼の上司の名前だっただろうか。突然始まった彼の近況報告に、うろ覚えな“伊達さん”の顔を頭に思い浮かべながら、わたしは言葉の続きを待った。

「最近会ってないって言ったら、“いよいよ愛想尽かされたか”ってからかわれて」
「え…」
「むかついたから、聞きに来たんだ」

言うと同時に、まるで拗ねた子供のような仕草でわたしの体をぎゅうと抱き締めた。呼吸も苦しくなるほどの抱擁に思わず身じろぐと、谷村さんはもう一度、確認するようにわたしに尋ねた。

「好きだな?」
「うん」
「…よし」

谷村さんは満足気に短く言うと、最後に少しだけわたしを抱き締める腕に力を込めて、そしてゆっくりとわたしの体を解放した。恐る恐る見上げると、谷村さんはお酒の熱に僅かに頬を上気させたまま、唇の端に微かに笑みを浮かべてわたしを見下ろしている。その表情はどこかきらきらと嬉しそうに見えて、いつも冷静で大人っぽい谷村さんでも、酔うとこんなにも素直で無邪気になるのかと少し驚かされる。

「じゃあ、今晩は一緒に寝ような」
「え…」
「別にいいだろ」

楽しげな彼の表情に、嫌な思い出が蘇って凍りつく。谷村さんは見かけによらず寝相が悪くて、過去にも隣で寝ているところを大胆な寝返りに巻き込まれ、抱き枕にされたまま朝を迎えたこともある。

思わず返答を躊躇したわたしの脳裏に、朝のニュースの天気予報が蘇る。――“東京の最低気温は0度、夜はこの冬一番の冷え込みになるので、あたたかくして寝ましょう!”

抱き枕にされるのはご免被りたいけれども、お酒の熱を帯びた彼の隣で眠れば、いつもの寝返りに巻き込まれて、抱き締められて、それはそれはあたたかい夜を過ごせるだろう。

「…、うん」
「よし。じゃあ、裸で寝ような」
「えっ…」

そう言った谷村さんはからかうような表情で悪戯っぽく笑った。冗談だと思いたいけれども、谷村さんの方は今にもその洋服を脱ぎだしそうにも見える。とりあえず、温かい中国茶でも飲んで、少し落ち着いてもらおうか。きっとお茶を飲んだところで、彼の決意は変わらないだろうけれども。

「たまにはいいだろ、そういうのも」
 
わたしを見下ろす彼の目元に差す赤よりも、動揺したわたしの頬は赤く、そして彼の頬を上気させる熱以上に、わたしの頬は熱を放っている。彼の放つ熱にじんわりと溶かされて、わたしの心は小さな溜め息の雫を落とした。


 

 



放熱/20130117