2月14日、午後5時17分。バレンタインデーを迎えて既に17時間余りが経過し、そわそわしながら待っていた俺の気持ちも遂に折れ始めていた。

天下一通りから戻ったその足で児童公園に立ち寄った俺は、ベンチにどかっと腰を下ろして項垂れた。肺深くから吐き出された溜め息は、背後で回転していた室外機のファンの音に掻き消される。むしゃくしゃした気持ちを払うようにセットした髪を乱暴に掻くと、俺はスラックスの後ろポケットに手を突っ込んで煙草を取り出した。

(つーか、バレンタインって2月14日で合ってるよな…)

いっそのことその情報が俺の勘違いで、実はバレンタインが来週だったらどれだけマシだろう。現実から目を背けようにも、俺の視界の隅には『2/14 Saint Valentine's Day』と印刷された華やかなピンク色の旗が電灯から下がっているのが映っている。

正直な所を言えば、昼に事務所に入る時も一応辺りを見回したし、コンビニに行く時も念の為辺りを見回したし、30分前には我慢しきれなくなって天下一通りの方まで足を運んでみたが、やっぱり何もなかった。密かに想いを寄せているの姿も見当たらないし、ついでに言えば義理チョコの一つも届きやしない。表通りはそこら中がピンク色で幸せそうなのに、俺はいつもと何ら変わりない一日を過ごして、挙句の果てには一人不貞腐れてこのザマだ。

彼女との間にお互いの好意を決定づけるような何かがあった訳ではないが、それでもとは仲良くしているつもりだったし、の性格上、きっとこういったイベントを無視することはないだろうと思っていた。ついでに言えば、このイベントに乗じて彼女の本心を探ろうという打算もあったが、それがまさか、チョコレートが貰えないのはおろか、姿まで見えないときた。

「はぁ…」

もう一度小さく溜め息を吐くと、俺は手にしていたソフトケースの箱から煙草を1本取り出した。おもむろに唇にくわえると、もう一度ポケットに手を突っ込んでライターを探ったが、スラックスのポケットは既に空だった。煙草をくわえたままポケットから手を抜いて、今度は上着のポケットに手を突っ込み、苛立ちながら中を探っていると、通りの方から聞き慣れた柔らかな声が辺りに響いた。

「あ、城戸さん!」
「!?」

女の子の声で名前を呼ばれて、驚いた拍子にくわえていた煙草を落としそうになりながら、反射的に顔を上げる。するとそこには、大きな紙袋を手にした――花の姿があった。一瞬の淡い期待はすぐに散ったが、もはや諦めの気持ちも大きく、俺は小さな溜め息と一緒に肩を落とす。そしてくわえていた煙草を抜き取ると、それを箱に戻しながら、ぺこっと頭を下げて一礼した。

「…どうもっす」
「寒いのに、こんな場所でどうしたんですか?休憩ですか?」
「まぁ…そんなところっすね」

煙草のソフトケースを上着の右ポケットに突っ込みながら、俺は頭を掻いて俯いた。“実はちゃんからのチョコレートを期待してこの辺うろついてまして”、なんてダサすぎて口が裂けても言える訳がない。花は人懐っこい丸い目をきらきらさせて俺を見つめていたが、不意に「あ!」と声を漏らすと、紙袋の中をごそごそと探る。そしてハイヒールの踵でコツコツと音を立てて俺の元へ歩み寄ると、紙袋の中から綺麗に包装された小箱を俺に差し出した。

「はい、これ!」
「え?」
「もう、城戸さんったら…忘れちゃったんですか?今日はバレンタインですよ?」

花はそう言うと、表通りの電灯に下がった『2/14 Saint Valentine's Day』の旗に目をやる。つられるように俺も旗に視線を向けたあと、差し出された小箱に視線を戻し…そして手を伸ばして受け取った。その途端、俺の心に一抹の喜びと同時に、虚しさが込み上げてくる。花が自分を気にかけてくれたことは嬉しいし、チョコレートを貰えるのは有り難いけれども、正直今の俺にとってのチョコレートは心の傷を抉る存在でもある。俺は受け取った包みに視線を落としたまま、言葉を返した。

「…すんません、有り難く頂きます」
「いいんですよぉ。いつもお世話になってますから」

花の愛想のいい笑顔に幾分か心の傷が和らぐ。…と同時に、俺の頭に一つ考えが浮かんだ。花なら、今日一日俺が求めてきた答えの鍵を知っているかもしれない。俺はごくりと唾を飲むと、もう一度花を見上げて問いかけた。

「あの…花ちゃん」
「はい?」
「その…今日、ちゃんって出勤してます?」
「え?ですか?」

花は眉を持ち上げると、僅かに目を丸くしてぱちぱちと瞬きをする。そしてしばらく考えるように黙り込んだあと、児童公園の時計にちらりと視線をやると、俺に向き直って言葉を返した。

「出勤してましたけど…もう帰りましたよ?30分くらい前に」
「えっ…」
「なんだか慌てた様子でしたけど」
「そうですか…」

受け取った綺麗な包装の小箱に視線を落として、黙って俯いた。予想だにしない花の言葉が、頭の中をぐるぐると回る。もう帰った…慌てた様子で…。彼女に出くわす偶然の可能性と、彼女が俺へのチョコレートを用意してくれている数パーセントの可能性にかけて街を出歩いてみたけれども、まさか既に帰っていたとはさすがに想定外だった。

(そっか。帰ったんだな…)

そういう事ならこれ以上外を歩いても仕方ない。俺は受け取った小箱を掴んだままベンチから立ち上がると、花を見下ろして小さく頭を下げた。

「色々すんません。チョコレート、ありがとうございました」
「いいえぇ。じゃあそろそろわたし、戻らないと」
「あ、俺も戻ります」

受け取った小箱を上着の左ポケットに突っ込むと、表通りへ戻る花を追いかけて隣に並ぶと、そのまま並んで歩き出す。夕方といえども2月のこの時間は既に日も落ちて周囲も薄暗く、深い濃紺色の街並みにピンク色のバレンタインの旗が蛍光灯に照らされてひらひらと揺れていた。




公園を出て数メートル歩いた所で、花は劇場北西の細道を抜けて事務所に戻り、俺も事務所に戻ろうと七福通りを一人歩いていた。徐々に冷えてきた風に肩を竦めてポケットに手を突っ込むと、冷えた左手の指先に花からもらった小箱が触れ、今日がやはりバレンタインデーだということを思い知らされる。

(結局、ちゃんとは何も無しか…)

ポケットから抜いた手で頭を掻くと、小さく溜め息を吐く。唇から漏れた溜め息は、すれ違う楽しげな女の子達の甲高い笑い声に掻き消された。襟足をくすぐる真冬の乾いた風に襟首を撫でながら事務所へ戻る道程を足早に歩く。Mストアの前に差し掛かり、いつもの交差点をホテル街の方へ左折する。ちょうど曲がり角の辺りで、カップルと思しき男女が仲睦まじく一つの肉まんを分け合って食べているのがまた若干俺の傷口を広げたが、もはや俺には関係ないと目を逸らした。

内心期待していただけに落ち込んだが、別に何かを失った訳でもない。また明日からいつも通りに接すれば、今後チャンスが無いわけでもないはずだ。

(…はぁ、)

もう一度深く溜め息を吐いて視線を持ち上げると、数メートル先の正面に事務所の看板が見える。いい加減、事務所に戻って大人しく待機でもするか。まだ目を通していない雑誌の一冊や二冊でもあるだろう。撫で付けた髪をわしわしと掻きながら革靴の爪先に視線を落として足早に事務所のビルの階段へ足を踏み入れた瞬間、ちょうど階段を降りてきた人影が俺の行く手を阻んだ。

「っと…」
「あっ」

響いた声につられるように視線を持ち上げると、目の前に立っていたのは他でもないだった。目が合った拍子に「おわっ!」と思わず声が漏れ、俺は反射的に大きく後ずさる。は目をきらきらさせて「城戸さん!」と俺の名を呼ぶと、嬉しそうに階段を降りてきた。

「今戻られたんですね!」
「あー…ええ、まぁ」
「ちょうど良かった!わたし、城戸さんに用事があって来たんです」
「え?」

動揺してしどろもどろになる俺とは対照的に、は晴れやかな笑顔を浮かべて俺の前に立つと、左手に持っていた紙袋を俺の目の前にすっと差し出した。俺は驚いたままの顔を見つめていたが、おずおずと視線を差し出された紙袋に向けて…そして、思わず言葉を呑んだ。彼女が差し出した紙袋には、有名チョコレートブランドのロゴがプリントされている。思いがけない急展開に、突如として鼓動がどくどくと高鳴りだした。

「え…」
「これ、わたしから城戸さんに!バレンタインのチョコです」

一瞬の間を置いて、途端に耳朶の端までかあっと顔面が熱を持った。心の奥がむず痒くなるような照れ臭さに、言葉を返そうとすれば顔がにやけてしまう。「…はは」俺は笑いを堪え切れない顔を左手の手のひらで覆った後、自分を見上げる彼女を真直ぐに見下ろして、そして言葉を返した。

「…いいんですか?俺なんかに」
「えっ…?…それは、…そうですよ」

聞き返せば、途端にしおらしくなる彼女の態度に、ついに優越感まで感じる。もはやにやつく表情を隠すことすら忘れて、照れたように視線を逸らした彼女の手から紙袋を受け取った。袋の中には、確かにチョコレートと思しき包装が見える。俺は包装に視線を落としたまま、喜びと安堵感で内心盛大にガッツポーズをとっていた。

「すげぇ。…ありがとう」
「いいんです。本当は、手作りしたんですけど…さっき見たら、割れちゃってて」
「え」

思いがけない言葉に、俺は思わず目を見張る。彼女は照れ臭そうに笑って、言葉を続けた。

「だから、さっきヒルズで買って来たんです。きっと美味しいと思いますよ」

数分前の花ちゃんの“随分慌てた様子でしたけど…”の言葉が蘇り、むず痒い胸の奥にズキンと突き刺さる。俺の為にわざわざ手作りして、それがちょっと割れたくらいでわざわざヒルズまで出向いてくれたなんて。俺はごくりと唾を飲むと、はにかむ彼女を見下ろして、そっと口を開いた。

「…じゃあ、これ。一緒に喰いません?」
「え?」
「こっちは二人で喰って…で、ちゃんの手作りの方を俺が貰うってのはどうですか?」
「えっ…でも、割れちゃってるんです。ハートなのに…」
「いや、俺が喰いたいんで」

困ったように眉尻を下げて俺を見上げる彼女に、俺は言葉を続けた。

「割れてようが何だろうが、全部喰いますから」

俺の言葉に、不安げにしていた彼女の表情がふわりと綻んだ。陰りのないその笑顔一つで、今日一日の悶々とした想いが全て吹っ飛んでしまうから不思議だ。受け取った紙袋を左手に、俺は右手で彼女の肩をぽんと叩いて、並んで歩き出す。頬を撫でる冬の風に、『2/14 Saint Valentine's Day』と書かれたピンク色の旗がひらひらと揺れた。

 


 

 



GIZA2HEART/2013214