2月14日、午後5時17分。待ち合わせの予定は午後6時だから、時間にはまだ余裕がある。待ち合わせ場所のミレニアムタワーはお洒落なショップも沢山入っているし、ぶらぶら歩いて時間を潰すにはちょうどいい場所だろう。中道通りを歩けば、会社帰りの人々や若いカップルで通りは賑わっている。通りを照らす電灯には『2/14 Saint Valentine's Day』と印刷されたピンク色の旗が冷え始めた夕方の風にひらひらと揺れ、立ち並ぶビルの隙間から、ライトアップされたミレニアムタワーがその姿を覗かせているのが見えた。

(うう、緊張するなぁ…)

チョコレートの入った紙袋を持つ手がやけに冷えるのは、冷え始めた風のせいだけではないだろう。谷村さんからの電話でデートの約束をしたのも昨夜の事で、バレンタインのチョコレートを用意しているなんてまだ一言も言ってないし、もしかしたらとても驚くかもしれない。…けれども。

(谷村さん、チョコレートなんて食べるかなぁ…)

いつも飲み物といえばお茶で、コーヒーを飲んでもブラックだし、あまり甘い物を食べているイメージはない。もし苦手だったら、わたしが持って帰って食べるのもいいだろう。いつもよりも少し熱を帯びた頬に、吹き抜ける風がひんやりと心地良い。待ち合わせ時間はまだ先なのに、早くも緊張してどきどき高鳴る鼓動を深呼吸で落ち着けながら、カップルで賑わう中道通りを通り抜ける。そして泰平通りの交差点に差し掛かった瞬間、人々で賑わう通りの中に、思いがけない人影を見つけて、思わず足が止まった。

(…あれ?)

人混みの中でもよく目立つ、凛とした立ち姿。すらりと伸びた長い手足に、無駄のない洗練された所作。見慣れた濃紺のジャンパーを羽織り、人々で賑わう泰平通りを歩いていたのは、他でもない谷村さんの姿だった。

(谷村さんだ)

特別急いだ様子はないけれども、その長いリーチのせいか、谷村さんの歩く速度は人よりも早い。夕方の冷たい風に襟足を撫でながら、谷村さんは睫毛を伏せてその視線を落としていたが、人で賑わう交差点に差し掛かった時、何気なくその視線を持ち上げる。そして、持ち上げられたその視線は、人混みの中で立ち止まっていたわたしの視線と不意にぶつかった。行き交う人々の中、どこか眠たげな眼差しでぼんやりとわたしを見つめていた谷村さんの目が、みるみる大きく見開かれる。そして、大きくひらいたその目が一度瞬きをすると同時に、端正な唇が零すように言葉を紡いだ。

「…あれ」
「こんばんは、」

小さくお辞儀をして挨拶すると、谷村さんは驚いた表情を貼り付けたまま足を止める。そして人波を分けるようにしてすっとわたしの元へ歩み寄ると、子供のような丸い目を大きく見開いたまま、わたしを見下ろした。

「…随分早いな」
「はい。ちょっと、時間が余って…」

思いがけないタイミングで鉢合わせてしまって、嬉しいはずなのに笑顔はどこかぎこちない。照れ臭さを感じながらそっと視線を落とし…そして、わたしは気がついた。わたしを見下ろす谷村さんのその手には、見慣れない大きな紙袋が握られていた。その紙袋の持ち手ぎりぎりまでどっさりと入っていたのは、バレンタインのチョコレートと思しき丁寧にラッピングされた箱の数々だった。

(あ…)

その紙袋を見れば、谷村さんが今日いかに大勢の女の子からチョコレートを貰ったのかすぐに理解できた。きっと、わたしがドキドキしながら谷村さんへのチョコレートを選んでいる頃、わたしの知らないどこかの女の子も谷村さんのことを考えてドキドキしていたんだろう。顔も知らない女の子達の想いが、紙袋の中できらきら輝いて見える。谷村さんは、その魅力の分だけ沢山の女の人から好意を寄せられているのだろう。

(やっぱり、モテるんだなぁ…)

そっと視線を持ち上げると、谷村さんは僅かに目を見張るような表情でわたしの手元に視線を落としていた。わたしはできるだけいつもと同じ笑顔を浮かべて谷村さんを見上げると、できるだけ明るく問いかけた。

「チョコ、貰ったんですか?」
「?…ああ、これ」

谷村さんはわたしの言葉に我に返ったように目を丸くすると、今度は自分が手にしていた紙袋に視線を落とす。谷村さんと一緒に覗き込めば、袋の中には有名ブランドのチョコレートから、手作りと思しきリボンのかかった包みまで、大きさも種類も様々の沢山のチョコレートが入っていた。谷村さんは興味なさげにわたしの頭上から袋の中身を見下ろしたまま、いつもと変わらない淡々とした口調で言葉を続けた。

「いらないし、何も返さないって言ったんだけどな」

呆れたような谷村さんのその口調で、チョコレートを手渡された瞬間の谷村さんの神妙な表情が目に浮かび、相手の女の子に同情したい気持ちになる。目の前にいるわたしを含め、谷村さんに憧れる大勢の女の子達の気持ちなど彼には知る由もないだろう。谷村さんは面倒くさそうに頭を掻くと、淡々と続けた。

「持って歩くのも邪魔だし、家にあっても困るから、故郷にでも置いてこようと思ってさ」

「…でも、まさかに会うとは思わなかったけどな」谷村さんはそう付け足すと、小さく溜め息を吐いて襟足を撫でた。笑顔で谷村さんを見上げたまま、胸の奥が少しだけぎゅっと痛むのを感じる。“いらないし、”“家にあっても困るから――”やっぱり、谷村さんはチョコレートなんて食べないのかもしれない。仮に優しさで受け取ってくれたとしても、結局のところは迷惑になってしまうだけだろう。

(…やっぱり、自分で食べようかな)

チョコレートの入った紙袋を持つ手にぎゅっと力を込めると、谷村さんから見えないようにコートの裾の影にそっと引っ込める。谷村さんは手にしていた紙袋の持ち手を握り直すと、もう一度ハァと掠れた溜め息を吐いた。通りはいつも以上に人々で賑わっているし、この荷物をここまで運ぶのも一苦労だったのだろう。溜め息を吐く谷村さんの向こうで、街灯に下がった『2/14 Saint Valentine's Day』と印刷されたピンク色の旗が風になびいている。雑踏の中に、幸せそうに笑いあう男女の声が響いた。

「…ところでさ」
「? はい?」
「それ、」

それ、と口にした谷村さんの視線の先をつられるままに追いかけて、わたしは思わず固まった。谷村さんが見つめていたのは、コートの裾に隠したつもりのチョコレートの紙袋だった。突然思いがけないところを突っ込まれて、反射的に頬がかあっと熱を持ち、私は慌てて視線を爪先に落とす。谷村さんは挙動不審気味なわたしを見下ろしたまま、いつもの調子で言葉を続けた。

「チョコレート?」
「えっ…そ、…それは…、」
「俺の?」

核心を突くような谷村さんの質問の連続に、鼓動はどんどん早くなり、こらえきれずに耳朶まで熱くなる。彼の視線が真直ぐに自分に向けられているのは、視線を逸らしていても嫌という程わかった。追い込まれたわたしは上手い言い訳も嘘も何も思いつけず、口を開こうにもしどろもどろになる。谷村さんはしばらくの考えるような沈黙の後、ぽつりと漏らした。

「…よし」

頭上で響いた声に恐る恐る視線を持ち上げると、谷村さんは僅かに目を細めてわたしを見下ろしていた。その口元に浮かぶ不敵な笑みに、思わず反射的にうっと言葉に詰まる。谷村さんはわたしの顔を見下ろしたまま意地悪っぽくククッと笑うと、「…じゃあ、」と言葉を続けた。

「悪いけど、荷物だけ置かせてくれ。すぐに戻るから」
「あっ、そしたら…あの、これも、」

わたしはどさくさに紛れるように、コートの裾に隠していた紙袋を谷村さんの前に差し出した。恥ずかしいけれども、用意していたことを気付かれてしまった以上、後で余計なお荷物になる前に、他の女の子達のチョコレートと一緒に故郷の皆のお土産にしてもらったほうがよっぽどいい。谷村さんはわたしを見つめて驚いたように眉を持ち上げた後、少し笑って言葉を返した。

「それは後だろ」
「え?」
「…二人きりの時に、な?」

雑踏の中でさらりと響いた彼の言葉が、じわじわとわたしの頬に熱をもたらす。谷村さんは空いた片手でわたしの肩をぽんと軽く叩くと、「待っててくれ」と掠れた声で囁いて、そのままわたしの横をすり抜けて亜細亜街の方に向かって歩き出す。通り過ぎたすらりと背の高い後ろ姿に彼の香りが微かに揺れて、 わたしの胸を甘く焦がした。


 

 



HEART4YOU/2013214