いつもの上着を羽織っただけなのに、先刻まで部屋で気ままにくつろいでいた谷村さんが、一瞬にして谷村刑事の顔に戻った様に思えて何だか不思議だ。現場へ向かう支度をする後ろ姿をぼんやりと見つめていると、彼の上着から、彼の清潔感のある爽やかな香りに、微かな煙草の匂いがふわりと混じって香った。

「じゃあ、そろそろ」
「あ、うん」

谷村さんは背中越しにわたしを振り返って少しだけその表情を和らげると、くるりと背を向けて、そのまま玄関へ向かって歩き始めた。追いかけるように彼の後ろをついて歩くと、わたしの部屋の狭く短い廊下では、その背中は街中で見るよりも少しだけ大きく見えた。廊下をゆっくりと歩きながら、谷村さんはいつものようにその両手を上着の両ポケットにおもむろに突っ込む。そしてそのまま何歩か進んだところで、「あ、」と声を漏らして足を止めた。

「そうだ」

谷村さんはその場に立ち止まると、ゆっくりとこちらを振り返る。つられるように立ち止まって視線を持ち上げれば、谷村さんの丸い目がじっとわたしの顔を覗き込んでいた。彼はただ当たり前にわたしを見ただけなのかもしれないけれども、その目に見つめられるとわたしは弱い。どきっと動揺したわたしの心まで見透かされそうで、逃げるように慌てて視線を逸らすと、谷村さんはポケットに突っ込んでいた右手をおもむろに抜いて、わたしに向かって何かを差し出した。

「これ」
「え?」

思いがけない彼の行動に驚いて視線を彼に戻すと、谷村さんはいつもと何一つ変わらない表情でわたしを見つめていた。突然の展開に動揺したけれども、言われるがままに彼の手に手を伸ばすと、谷村さんはその手に握っていた物をそっとわたしの手のひらに乗せる。金属のような感触を手のひらに感じて恐る恐る覗き込むと、わたしの手の中にあったのは鍵だった。

「鍵…」

自転車や車の鍵とも、ロッカーや金庫の鍵とも違うその形状は、どこかの家の鍵だろうか。しかし、キーホルダーやチェーンなどの装飾品も無く、そもそも家の鍵にしてはあまり使われている印象もない。手渡された鍵に心当たりを探しながら手渡された鍵をまじまじと覗き込んでいると、わたしを見下ろしていた谷村さんが口を開いた。

「とりあえず、持っててくれ」
「うん。でも、どこの鍵?」
「どこって…俺の家だけど」
「俺の…、えっ」

予想もしていなかったその言葉に驚いて顔を上げると、谷村さんはいつもより少しだけ柔らかい表情でわたしを見つめていた。空いた右手でさらさらした髪をくしゃっと掻きながら、照れ隠しのように視線を逸らして付け足した。

「…って言っても、滅多に帰らないけどさ」

その言葉通り、谷村さんは常に公私共に忙しくあちこち動き回っている気がするし、少し休むくらいなら亜細亜街のお店や、天下一通りのお店で事足りるのだろう。そもそも、彼が自宅で大人しくしている姿なんて想像もできないし、最近は時間ができるとわたしの部屋を訪れている。…そうだ、それならば。

(わたしも、鍵…)

これからもここで体を休める事が増えるのなら、いっそわたしの部屋の鍵も彼に渡しておいた方が都合もよいだろう。頭の中で家の合鍵の場所を思い返しながら、玄関へ向き直ろうとしていた谷村さんを見上げて慌てて声をかけた。

「じゃあ、代わりにわたしの部屋の鍵も…」
「? いや、遠慮しとくよ」
「え、」

言いかけたわたしの言葉を遮るように、谷村さんはすぐに首を横に振った。再びの思いがけない反応に、言葉を呑んで谷村さんを見つめる。谷村さんは一瞬伏せた瞼をゆっくりと持ち上げると、丸い目を楽し気に細めて、からかうように言った。

「そんな大切な物を俺に預けて、どうなっても知らないぞ」

にやりと笑った含みのある表情に動揺して思わず言葉を呑むと、谷村さんは「はは」と掠れた声で笑った。そしてポケットに片手を突っ込んだまま、空いた手でわたしの頭を軽くぽんと撫でる。見上げた視線の先で、谷村さんの端正な顔立ちが柔らかく綻んでいた。

「それに、鍵がなくてもがいるだろ」
「わたし?」
「そう」

横暴にも聞こえるその言葉の真意は汲み取れなかったけれど、真直ぐに見つめられて甘い言葉を囁かれればわたしだって照れ臭くなる。谷村さんはわたしを撫でた手を再び上着のポケットに入れると、その唇の端に微かに笑みを浮かべて、満足気に瞳を閉じた。

「だから、それでいいんだ」

呟くように漏れた掠れた甘い声が、俯いたわたしの熱い耳に残る。谷村さんは唇の端っこでにこっと笑って「また連絡するよ」とわたしに囁くと、再び玄関に向かって足を進めた。いつの間にかぎゅっと握り締めていたわたしの手の中で、ひんやりと冷たかったはずの鍵は生温くなり始めている。彼が通り過ぎた廊下に残る微かな煙草の香りが、わたしの胸をますます焦がした。

 

 



愛のある場所/20130503