いつもの上着を羽織っただけなのに、先刻まで部屋で気ままにくつろいでいた谷村さんが、一瞬にして谷村刑事の顔に戻った様に思えて何だか不思議だ。現場へ向かう支度をする後ろ姿をぼんやりと見つめていると、彼の上着から、彼の清潔感のある爽やかな香りに、微かな煙草の匂いがふわりと混じって香った。 「そうだ」 谷村さんはその場に立ち止まると、ゆっくりとこちらを振り返る。つられるように立ち止まって視線を持ち上げれば、谷村さんの丸い目がじっとわたしの顔を覗き込んでいた。彼はただ当たり前にわたしを見ただけなのかもしれないけれども、その目に見つめられるとわたしは弱い。どきっと動揺したわたしの心まで見透かされそうで、逃げるように慌てて視線を逸らすと、谷村さんはポケットに突っ込んでいた右手をおもむろに抜いて、わたしに向かって何かを差し出した。 「鍵…」 自転車や車の鍵とも、ロッカーや金庫の鍵とも違うその形状は、どこかの家の鍵だろうか。しかし、キーホルダーやチェーンなどの装飾品も無く、そもそも家の鍵にしてはあまり使われている印象もない。手渡された鍵に心当たりを探しながら手渡された鍵をまじまじと覗き込んでいると、わたしを見下ろしていた谷村さんが口を開いた。 「とりあえず、持っててくれ」 予想もしていなかったその言葉に驚いて顔を上げると、谷村さんはいつもより少しだけ柔らかい表情でわたしを見つめていた。空いた右手でさらさらした髪をくしゃっと掻きながら、照れ隠しのように視線を逸らして付け足した。 「…って言っても、滅多に帰らないけどさ」 その言葉通り、谷村さんは常に公私共に忙しくあちこち動き回っている気がするし、少し休むくらいなら亜細亜街のお店や、天下一通りのお店で事足りるのだろう。そもそも、彼が自宅で大人しくしている姿なんて想像もできないし、最近は時間ができるとわたしの部屋を訪れている。…そうだ、それならば。 言いかけたわたしの言葉を遮るように、谷村さんはすぐに首を横に振った。再びの思いがけない反応に、言葉を呑んで谷村さんを見つめる。谷村さんは一瞬伏せた瞼をゆっくりと持ち上げると、丸い目を楽し気に細めて、からかうように言った。 「そんな大切な物を俺に預けて、どうなっても知らないぞ」 にやりと笑った含みのある表情に動揺して思わず言葉を呑むと、谷村さんは「はは」と掠れた声で笑った。そしてポケットに片手を突っ込んだまま、空いた手でわたしの頭を軽くぽんと撫でる。見上げた視線の先で、谷村さんの端正な顔立ちが柔らかく綻んでいた。 「それに、鍵がなくてもがいるだろ」 横暴にも聞こえるその言葉の真意は汲み取れなかったけれど、真直ぐに見つめられて甘い言葉を囁かれればわたしだって照れ臭くなる。谷村さんはわたしを撫でた手を再び上着のポケットに入れると、その唇の端に微かに笑みを浮かべて、満足気に瞳を閉じた。 「だから、それでいいんだ」 呟くように漏れた掠れた甘い声が、俯いたわたしの熱い耳に残る。谷村さんは唇の端っこでにこっと笑って「また連絡するよ」とわたしに囁くと、再び玄関に向かって足を進めた。いつの間にかぎゅっと握り締めていたわたしの手の中で、ひんやりと冷たかったはずの鍵は生温くなり始めている。彼が通り過ぎた廊下に残る微かな煙草の香りが、わたしの胸をますます焦がした。
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