日毎に慌しくなる仕事に心も体も疲れ果てた状態で最寄駅で電車を降り――思えば、あの時既にやけに喉が渇いていたのだけれども、特に気にせずスーパーに寄って夕食の買い物を済ませて。そして自宅のアパートに向かう途中で、突然視界がもやがかかったように色が白く飛び、ぐらりと左右に視界が大きく揺れ…真っ白に濁った世界の中で、アパートの郵便ポストらしき輪郭がうっすらと見えたところで、――わたしの意識は途絶えた。 (……あれ?) 古い木目の天井も、部屋を照らす質素な蛍光灯も、いつものわたしの部屋と変わらないけれども…違う。何かが決定的に違う。その違和感の正体を確認しようと、横たわっていた布団に肘をついておもむろに体を起こそうとしたところで――わたしは思わず息を呑んだ。 (え…わたしの部屋、ベッド…) 見下ろした先にあったのは、見慣れた部屋のベッドではなく、全く見覚えのない質素な布団だった。思いがけない事態に思考ごと停止したその時、不意に視界の隅で不意に影が小さく揺れる。びくっと反射的に肩を縮こまらせて恐る恐る視線を動かすと、見慣れた九畳の畳張りの空間に、見覚えのない薄紺色のカーテンが目に映った。そのカーテンレールには、どこか見覚えのある飾り気のない上着がきちんと丁寧にハンガーにかけられてぶら下がっていて――ちょうどその上着の下の辺りで、膝を立てて、落ち着かない様子で爪先の辺りに視線を彷徨わせながら、彼は畳に腰を降ろしていた。 「…、馬場さん」 それは、アパートの隣室に住んでいる馬場さんだった。馬場さん、と言っても、馬場という名字である事を知っているくらいで、彼自身のことはよく知らないけれども、アパートの廊下で顔を合わせたことは何度もあるし、若い男性なのにいつもきちんと頭を下げて挨拶をしてくれるので、何となくいい人そうだな、と漠然と感じていた。馬場さんは、部屋の片隅でそわそわしながら小さく貧乏ゆすりをしていたけれども、わたしの声に気がつくと、驚いたように少しだけ視線を持ち上げて、まっすぐにわたしを見た。 「…気が付いたんですか」 端正な唇から零れるように紡がれた言葉は、透き通る音になって部屋の沈黙に響く。「あの…わたし、」ゆっくりと布団から体を起こしながら馬場さんを見上げると、馬場さんはまた少し落ち着かない様子になって、たちまちわたしから視線を逸らすと、廊下でいつも挨拶をする時と同じように、控えめな口調で言葉を続けた。 「…俺が家に戻ったら、さん、俺の部屋の前で倒れてたんです」 馬場さんは「鍵借りて、さんの部屋に運ぼうかとも思ったんですが…余所者が勝手に上がる訳にもいかないですし」と言葉を続けると、申し訳なさそうに視線を爪先の辺りに落とした。落ち着かない様子で小刻みに地面を軽く叩いていたその爪先は、今は大人しく床の上で静止している。馬場さんはその爪先に視線を向けたまま、わたしに小さく頭を下げた。 「…勝手な真似して、すみません」 迷惑をかけられたはずの馬場さんの方が何故か申し訳なさげにするので、わたしも必死に馬場さんに向かって首を振る。白んだ視界の中にうすぼんやりとポストが見えた辺りから、馬場さんの部屋で意識を取り戻した今この瞬間まで、記憶も抜けているし、一体、彼に何をどこから謝るべきか…。混乱した頭を整理しようと、馬場さんにつられるようにわたしも視線を爪先に落とし――そして、瞬時に硬直した。視線の先にあったわたしの爪先は…しっかりとハイヒールのパンプスを履いたままだった。 「!?
わ、わたし…!ちょっ…ど、土足で…えっ、」 わたしのパンプスは、足首の部分に細いベルトがついたストラップ式のタイプで、簡単に足から靴が抜けない構造になっている。確かに、男性で、更にあまり女っ気のあるタイプではないだろう馬場さんがこのパンプスを見たら、簡単には脱がせることが出来ないと判断するのも無理はない。 「本当にごめんなさい!わたし、弁償します!お布団も、他にも、色々迷惑おかけして…」 「でも、近いうちに事務所の使ってねえ布団を譲って貰える話になってて…だから、本当に平気です」謝ろうとするわたしの言葉を遮るようにそう言った馬場さんのその目は、どこか少し嬉しそうにも見えた。初めて見るその表情と言葉に、思わず言葉を呑んで俯くと、馬場さんの優しさが改めて身に染みてくる。手に持ったパンプスのヒールにじっと視線を落として次の言葉を考えていると、馬場さんの方が先に口を開いた。 「ただ…」 思いがけないその言葉に視線を持ち上げると、馬場さんは先程までとは打って変わって、渋い表情を浮かべて申し訳なさそうに視線を落としていた。――ああ、確かに彼氏がいる身分で、隣人とは言え一人暮らしの男性の自宅で無防備な状態をさらしたとなれば、揉め事の一つや二つ、勃発してもおかしくはないだろう。馬場さんが心配するのも無理はない。無理はない、けれども。 「あの、それは大丈夫です。わたし、彼氏いないですし」 馬場さんの気遣いに、逆に胸にぐさりと突き刺さるものを感じながらわたしは首を横に振った。口に出してそう伝えれば、なおさら情けなくなってくる。いい歳の女が、彼氏の一つもいなくて、挙句貧血で倒れてお隣さんのお世話になっているなんて。馬場さんはわたしの言葉に、少し鋭い感じのする目を丸く見開いたまま、食い入るようにわたしの顔をじっと見つめている。そして数秒の間を置いて、独り言のように掠れた声を漏らした。 「……そうなんですか?」 言えば言うほど情けなくなり、真直ぐに向けられた馬場さんの視線が痛い。馬場さんの真直ぐな視線を感じながら、わたしはパンプスを両手に抱えたまま、いそいそと馬場さんの布団から畳に降りた。 「本当にごめんなさい。こんな…もう夜なのに、わたしのせいで眠れなくて…」 淡々と返される言葉とは裏腹に、馬場さんの視線はじっと真直ぐにわたしに向けられている。スカートの裾に気をつけながらそっと立ち上がると、倒れる前とは違って、すっかり真直ぐ立ち上がれるように回復していた。わたしは部屋の片隅に腰を降ろしている馬場さんにもう一度向き直って、深々と頭を下げた。 「馬場さん、ご親切にして下さって、本当にありがとうございます」 感謝の気持ちを込めて頭を下げると、馬場さんは少し動揺した様子でわたしから視線を逸らす。わたしは溢れ出る感謝の気持ちを胸に、馬場さんを見つめたまま、最後にもう一度深く頭を下げて、そして彼に伝えた。 「また改めて、お礼に伺いますね」 困った様な表情を浮かべて俯いている馬場さんに、もう一度だけ軽く会釈をすると、脱いだパンプスを片手に持ち替えて、布団の横に置かれていた買い物袋と荷物に視線を移す。そして荷物を持ち上げようと手を伸ばした時、わたしの手が届くよりも先に馬場さんの声が部屋に響いた。 「俺、持ちますよ」 「…わたし、お隣さんがこんなに優しくて親切な方で、本当に恵まれてます」 わたしの言葉が耳に届いたのか、彼の大きな目がますます大きく見開かれる。馬場さんはわたしの買い物袋を掴んだまま、言葉に詰まっている様子だった。突如として訪れた沈黙にますます気恥ずかしくなって、慌てて踵を返して玄関へ向かおうとした瞬間、わたしの耳元で彼の声が微かに響いた。 「…俺は、そんなにいい奴じゃないですよ」
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