『今日の夜、空いてます?』と携帯電話にメールが届いたのは今日、8月17日の昼過ぎの事だった。きちんと定時に仕事を終えられるか少し不安だったけれども、特別仕事の後は予定もなかったし、城戸さんも遅れても構わないと言ってくれた。現在の時刻は19時半過ぎ。予定より少し遅くなってしまったけれど、人々で賑わう劇場前広場のゲームセンターの前で、いつもの赤いスカジャンに身を包んだ城戸さんが、わたしを待っていてくれた。
「実は…ちょっと、ついて来て欲しい所があるんです」 そう言った城戸さんが、いつもよりほんの少しだけ改まった風だったので、わたしまで城戸さんの態度につられるように思わず緊張してしまう。城戸さんに案内されるままに劇場前通りをその背中について歩くと、雑居ビルの隙間を抜けるようにして暗がりの細い路地に入った。城戸さんはわたしを少し振り返って「すんません、物騒なとこで」と頭を下げると、立ち並ぶ雑居ビルの一棟の古い鉄製の扉を開けて、ビルの中へわたしを招き入れた。 扉を開けると、そこはこのビルの非常階段の出入り口のようだった。無機質な蛍光灯の光に、上階へと向かう質素な作りの白い階段が続いている。早速階段へと進む城戸さんの後ろ姿を追いかけるようにわたしも階段に足を踏み出すと、人気も無く、しんとした静寂に包まれた非常階段に二つの足音だけがやけに鮮明に響いた。 「ここです」 階段を最上階の4階まで上ると、このビルに入る時に見た出入り口と似たような造りの鉄製の扉があった。城戸さんはわたしを振り返ると、扉を開けて、先へ進むように視線で促す。城戸さんに導かれるまま恐る恐る扉の向こうへ一歩踏み出すと、目の前に広がっていたのはこのビルの屋上の景色だった。 「多分、そろそろ始まる頃なんで」 背中で響いた声に少し振り返ると、城戸さんは開いていた携帯電話を閉じてスラックスのポケットに突っ込むと、わたしの隣に立つ。そして視線をビル群の方に向けたまま、隣で見上げるわたしに声をかけた。 「あそこのでけぇビル、わかります?」 城戸さんは少し背を屈めてわたしの隣に顔を寄せると、ずっと視線の先に見える一際背の高い立派なビルを指差す。城戸さんのスカジャンの袖に顔を寄せるように彼の指差した先を覗き込んで、わたしも小さく頷いた。 「うん、見えます」 耳のすぐ横で響いた掠れた低い声には心なしかいつもより少し楽しげな響きがあって。すぐ隣にあるだろう城戸さんの頬を想像すると、思わず胸がどきっと高鳴った。城戸さんはそんなわたしの心の動揺など知る由もなく、わたしの高さに視線にあわせるように背を屈めて「…見えっかな」と小さく呟くと、覗き込むように少し身を乗り出した。…と、その瞬間。 城戸さんが指差した夜空に並ぶ二つのビルの隙間を走るように細く線が光り…そして、ドン、という低い音と共に、薄曇のかかった濃紺の夜空に華やかな白い光の花が咲いた。「あ…!」驚いて思わずフェンスに身を乗り出すと、白い花を追うように、続けざまに二つ、三つと大きな花火が次々と夜空に咲く。驚き、思わず口をまあるく開けたまま遠い夜空に咲く光の花に見惚れていると、城戸さんも同じ方角を見つめたまま、「始まったみたいっすね」と掠れた声で呟いた。 「あれ、外苑の方の花火なんすけど、こっから綺麗に見えるんです」 「何年か前の外苑の花火ん時、たまたまここにいて。そしたら随分綺麗に見えたんで、驚いたんです」城戸さんは遠い記憶を思い返すように呟きながらゆっくりと足を進めると、フェンスにへばりついて立っているわたしの隣に並ぶ。そして、言葉を付け足した。 「…少なくともここ数年は俺以外誰も見てねぇんで、ここ、結構穴場っすよ」 感嘆を漏らして隣の城戸さんを振り返ると、城戸さんは嬉しそうに目を細める。そして照れ臭そうに分厚い掌底で鼻先を軽く擦ると、スカジャンのポケットに手を突っ込んで、瞼を伏せるように革靴の爪先に視線を落とした。 「こんなにいい場所なのに、わたし、お邪魔しちゃってすみません」 途端に歯切れが悪くなる言葉に振り返れば、城戸さんは視線を彷徨わせながら、慌てたように額に大きな手のひらで触れる。そしてその手で後頭部をわしわしと掻くと、そっとわたしに視線を向けて、言った。 「…俺は、ちゃんと一緒に見たかったんです。花火」 思いがけないその言葉に、一瞬の間を置いて、わたしの顔は首から耳朶の端までみるみるうちに熱くなる。平静を装えず、しどろもどろになるわたしの言葉を待ちきれぬかのように光の花がドン、という音と共に続けざまに遠い夜空に咲いた。 「…、ありがとう」 やっとの思いで唇から零れた言葉は精一杯の感謝の気持ちだけだった。でも城戸さんはふっと表情を和らげると、そっとその視線を夜空に向ける。遠くの夜空に、次々と大輪の花火が咲いては散っていく。咲いた花火が散る前に、また一つ咲いて。消えることなく、次々と。夜空に満開に広がる花火の光からそっと視線を動かすと、わたしは隣の城戸さんを見上げてこっそり囁いた。 「城戸さん、」 わたしの言葉を聞いた瞬間、城戸さんはぎょっとしたようにわたしを振り返り…そして何か言いかけたまま、みるみる困ったような、怒ったような複雑な表情を浮かべて言葉を呑む。困ったようにポケットから抜いた手で頭をわしわし掻き、落ち着かない様子で上体をわたしから逸らすと…花火の音に掻き消されそうなほどに小さく、呟いた。 「…俺もそれ、言おうと思ってたところですよ」 そう言った城戸さんの唇の端が不器用にほんの少しだけ持ち上がったので、わたしもつられるように笑う。遠い夜空に咲いた花火の匂いはここまで届かなかったけれども、8月の生温い夜風に、城戸さんのスカジャンから仄かに煙草の匂いが届く。薄雲のかかった夜空に光が走って花開くように、わたしの胸にも小さな白い花が咲いていた。
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