秋山に呼ばれて居酒屋の席に合流した時、花の隣に座っていたは既に酒が回っているように見えた。飲んでいたのは見るからに甘そうな女子向けのカクテルだったが、そもそも自身、酒もそれほど強くなかった筈だ。の対面の席に腰を降ろし、隣の秋山と会話しながら時折の顔をちら、と見やると、愛想よくにこにこと笑うその表情は、彼女の意思で微笑んでいるのもあるが、どことなく酒に浮かされているようにも思えて引っかかる。そんな俺の心理を察したかのように、隣の秋山が「…城戸ちゃん、送れる?」と小声で耳打ちしてきたので、俺も思わず「、はい」とすぐに頷いた。
「っと、」 咄嗟に上着のポケットから手を抜いて彼女の腕を支えると、は俺に引き上げられるままによろよろと体勢を立て直して、「すみません」と頭を下げる。しかし真直ぐに立ったものの、その姿勢はやはりどことなくふわふわと揺れていたので、俺は彼女の腕を離したその手で襟足を掻いて、思考を巡らせた。こんな状態では、いつ転んでもおかしくない。だったら、いっそ最初から。 「危ねぇし、手…」 繋ぎます?――と、何の気なしに言いかけて、俺はハッと慌てて言葉を呑んだ。いくら彼女が酔っていて足取りも危なっかしいとは言え、付き合っている訳でもない女の子の手を握るのは流石にまずい。むしろ、正直なところ自分は彼女に気があるし、いずれは堂々とその手を握って歩きたいとすら思っている。だからこそ、酔った事を口実にして手を出すような真似はしたくない。 「…ここ、掴んどきます?」 先程言いかけた言葉を誤魔化すように、俺は自分の腕を彼女に差し出して、袖の部分を指差した。は驚いたように目を丸くすると、その目をぱちぱちと瞬かせてその口を噤む。時間にすれば一瞬だろう彼女のその沈黙がやけに重たくて、咄嗟に言い訳がましく口を開こうとした瞬間、は「はい」と小さく頷くと、俺が示したままに、俺の上着の肘の辺りをぎゅっと掴む。そして、人懐っこいはにかんだ表情で俺を見上げた。 「ありがとうございます」 「……」 ――正直。何の気なしに提案したことだったが、いざ好きな子に袖を掴まれてみると、思った以上に胸に来る。「いや、…いいって」平静を装って返事をしながらも、ぎゅっと上着の袖を掴まれた感触がなんともむず痒くて、意識を逸らそうとすればするほど、体中の全神経が肘の辺りに集中してしまう。彼女と触れ合った一点の感触に喜びと緊張を同時に感じながら、俺は彼女の覚束ない足取りに合わせるように、またこのむず痒くも心地良い緊張感を一秒でも長く味わえるように、いつもよりもゆっくりと歩いた。
「ちゃん、」 彼女の体は俺の腕のすぐ後ろにくっついているので、少し振り返っただけではその表情までは伺えなかったが、その声を聞けば特に調子が悪そうな様子もない。俺はそのまま数歩進んで彼女の部屋の前に立つと、彼女の部屋の表札を見上げて、背後の彼女に再び声をかけた。 「家、着きましたよ」 突然反応がなくなったので、名前を呼んでそっと背中を振り返る。そしてその顔を覗き込もうとした瞬間、上着の袖に触れていた小さな手が、確かめるように俺の袖をぎゅっと強く握り締め――そして、ぱっと慌てた様子で離れた。思いがけない彼女のその仕草に、刹那的に心臓がどくんと大きく音を立てる。一瞬の間を置いて…そこから、一気に加速するように心臓の音が激しく鳴り始めた。うるさいほどの鼓動を全身で感じながら生唾を飲み込んで見下ろすと、彼女の長い睫毛の先が、ゆっくりと俺を見上げた。 「ありがとう」 改めて正面から向き合えば、今夜の彼女はなんと愛らしい事だろう。少しぼんやりした濡れたようなその眼差し、酒に浮かされてほんのり薄く色づいたつるんとした頬、薄く開いた唇。真正面から見れば、その眼差しに見つめられれば、俺は弱い。それに先程の…ほんの一瞬だけ、上着の袖をぎゅっと握られた感覚。何でもない彼女のその仕草一つで、俺の心臓まで容易く握られてしまった。 (…もし、許されんなら) 手にしていたバッグをごそごそ探ってキーケースを取り出すと、彼女は部屋の鍵穴に鍵を差込み、くるりと回す。がちゃんという開錠の音を合図に、部屋のドアが開いた。小さくて品の良いキーケースを握るその細い指先に、思わず見惚れてしまう。その指先は、ほんの数秒前まで俺の袖に触れていて、そして離れる間際、まるで別れを惜しむように、俺の袖をぎゅっと握ったのだ。 (…あとほんの少しだけ、我が侭いいすか) ドアを開けて部屋に一歩入ると、玄関に立ち止まった彼女は肩を竦めて微笑んで俺を見上げた。俺を見つめるその睫毛の先がゆっくりと瞬きをした瞬間、俺はさりげなく彼女に向かって手を伸ばす。そして驚いたように微かに目を丸くした彼女の、自分よりも頭一個分は軽く低いところにあるその頭を、なけなしの優しさをありったけ込めて、そっと、ぽん、ぽん、と撫でた。
――もし、あと1秒でも長く触れていたら、俺はきっと平静を装えなかっただろう。エレベーターの中に一人になった途端、仏頂面を取り繕っていた自分の顔を、照れ臭い本心が一気に埋め尽くした。誰も見てやしないのに、緩んでしまう表情を隠すように顔面を手で覆って、わざと眉間に力を込めてみる。 俺の袖をぎゅっと掴んだ確かな感触。ほんの一瞬でも、彼女の中に俺と同じ気持ちがあったのだろうか。俺とこのまま離れたくないと、思ってくれたのだろうか。 (…はぁ、) エレベーターホールを出てエントランスの扉を開けると、熱を持った肌に秋の冷たい風が触れる。その冷たさを感じて初めて、自分の頬がすっかり熱くなっていたのだと気付かされた。熱くなった頬と頭に心地良い風を感じながら、上着のポケットの中でに触れた感触が鮮明に残る指先をぎゅっと握り締める。二人で歩いた平坦な道を引き返すように一歩踏み出せば、革靴の踵が地面を蹴る音が静かな住宅街にざっと響いた。
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