馬場さんが申し訳なさそうにジーンズのポケットから取り出したのは、ビニールに包まれた線香花火の束だった。聞けば、夏の慰安旅行の余り物で、捨てるのも忍びなく、わざわざ東京まで持ち帰ってきたのだという。季節は巡って、もう秋になろうとしている頃だった。

しゃがみこんだサンダルの爪先に触れる秋の夜風に肩を縮こまらせて隣を見上げれば、羽織った秋物のカーディガンの肩越しに、馬場さんの横顔が覗いた。わたしの肌は今夜の空気をひんやりと冷たく感じていたけれど、線香花火の小さな松葉の明かりに照らされた彼の表情は、冷たい秋の夜風に吹かれてもいつもと何一つ変わらないように見える。北国で育つと、人は寒さにも強くなるのだろうか。

ぼんやり考えながら視線を自分の手元に落とせば、わたしの線香花火はいつの間にか火の玉を失って黒く燻っていた。足元に置かれた空き缶の中に役目を終えた花火を落とすと、缶の奥底で水に触れた焦げた火薬がじゅっと小さく音を立てた。

「二人でも、案外無くなるもんですね」

馬場さんの声に視線を持ち上げれば、ビニール袋の中に残された線香花火は残りも僅かになっていた。馬場さんはわたしの手に線香花火を手渡すと、風から火を守るように片手で覆いながらわたしの花火にライターで火を点ける。わたしの手にした線香花火の先で、炎はやがて火の玉に変化して、またぱち、ぱちと秋風に揺れながら小さく松葉の火花を散らした。

…ふと、ぼんやりと見つめていた線香花火の火花に、脳裏に幼き日の思い出が蘇る。子供の頃、夏の夜に線香花火を囲って、誰の火の玉が最後まで残るかと友達と競ってみたり、最後まで火の玉が残ったら願いが叶うと意気込んで火の玉を落とさないように熱中したものだった。当時のわたしなりに、めいっぱい大きな願いを花火の火の玉に込めていたのだろう。

蘇る思い出に懐かしさにかられ、僅かに胸を弾ませながら隣の馬場さんを振り返り、その顔を覗き込んで尋ねた。

「馬場さん。子供の頃、線香花火をする時に、願掛けをしませんでしたか?」
「願掛け、ですか?」
「はい。線香花火の玉が最後まで残ったら、願いが叶うって」

わたしの言葉に、馬場さんは丸い目を少し見開くと、記憶を探るように視線を持ち上げ、「ああ、…そんな事、してたかもしれないですね」と呟くと、手にした花火の小さな松葉の明かりに視線を落とす。離れた土地に生まれても、恐らく同じくらいの時期に、同じように遊んでいたことがなんだか嬉しくて、わたしは肩を竦めて少し笑うと、自分の花火の先に視線を戻して言葉を続けた。

「じゃあ、今の馬場さんだったら、どんな事をお願いします?」

わたしの問いかけに、馬場さんは「え…」と困ったように眉を下げたあと、口を噤んで花火に視線を落とす。何の気なしに尋ねたことなのに、彼は火花をじっと見つめて、至って真面目な様子でじっと考え込んでいる。しばらくそうしてじっくりと思考を廻らせるように静かに瞬きを繰り返すと、馬場さんはゆっくりとわたしを振り返って、「願い事って言う程の事じゃないんですが…」と前置きして、答えた。

「俺、たまには美味い飯が喰いたいです」
「美味い飯?」
「情けない話ですが…俺、コンビニ弁当とか、良くてもラーメンとか、毎日そんなもんばっかりで」

「でも、それでも結構…いや、充分美味いんですが」申し訳なさそうにそう付け足したその横顔は、至って真面目な様子でいるのに、どことなく寂しげにも見えて、わたしはそっと口を噤んだ。とその時、馬場さんの手にしていた線香花火の先から、大きく膨らんだ火の玉が秋の風に吹かれ、無機質な黒いアスファルトの道路にぽとりと落ちた。

「あ」

どちらともなく漏れた呟きが、落ちた火の玉と一緒に夜の暗闇の中にすっと溶けて消えていく。一瞬の沈黙の後、そっと隣を見上げると、馬場さんの静かな横顔が、わたしの線香花火の火花にぱちぱちとうすぼんやりと照らされている。表情の読み取れない静かなその横顔を見上げたまま、わたしはそっと彼に話しかけた。

「あの、馬場さん」
「はい?」
「今日、晩ご飯まだですか?」
「ああ…そういえば、そうですね」

馬場さんは手にしていた線香花火を空き缶の中に入れると、ビニール袋から残り僅かな線香花火を拾い上げる。そして、隣に置いていたライターを手に取り、片手に持った線香花火に火をつけようと身を屈めた時、わたしは彼を見上げて言葉を続けた。

「あの…きっと、そんなに美味しくないですけど…わたし、何か作りましょうか?」
「え」

途端、馬場さんが薄暗闇の中でもはっきりわかるほどに目を大きく見開いてこちらをぐるりと振り返ったので、言いかけた口をぱくぱくさせて、思わずしどろもどろになった。わたしの動揺など知る由もなく、彼の大きな黒い瞳はじっと食い入るようにわたしの顔を見つめている。感情の読み取れないその真直ぐな視線から逃げるように視線を逸らすと、わたしの耳朶はすっかり熱くなっていた。

「俺…本当に御馳走になっていいんですか?」
「えっ…あの、…でも、特別美味しくはないと思うんですけど…」

自分で言い出したことなのに、いざ現実になれば突然に弱気な逃げ腰になってしまう。視線を逸らしながらも、必死の思いで「…簡単なものでもよければ」と搾り出せば、わたしを見つめているだろう馬場さんの唇から、小さく吐息が漏れた。恐る恐る薄目で隣を振り返れば、馬場さんは視線を逸らして、まだ火をつけていない自分の左手の中の花火をじっと見下ろしている。そしてしばらくの沈黙の後、独り言のように呟いた。

「…俺、さすがに花火一本に、そこまでの願掛けられなかったんですけど」
「え?」
「…俺も、まだ捨てたもんじゃないですね」

わたしが手にしていた線香花火の火花が一際大きく弾けた時、明るい赤橙の松葉の明かりに照らされて、馬場さんの横顔の口元が少し笑っているように見えたのは、わたしの気のせいだろうか。ぼんやりと馬場さんの横顔を見つめるわたしの手元の線香花火の火の玉は、焦がれるようにじりじりと小刻みに揺れ、そして萎むように少しずつ小さくなる。馬場さんがゆっくりと顔を上げてわたしを振り返った時には、その表情は秋の夜の暗闇にぼんやりと溶け出していた。





Calando/20131109