日曜日の午後、海沿いの緩やかなスロープを風を切って自転車で駆け下りる。シャツの隙間をぱたぱたと風が吹き抜けて、なんだか気持ち良い。後ろに座って珍しく大人しくしているヒカルも、無造作にセットした髪を風にふわりと揺らして「天気いーね」と空を見上げて目を細めた。からからという車輪の音の中に、時々ヒカルのサンダルの底のゴムがアスファルトを擦る乾いた音が聞こえた。

(…ん?)

不意に視線の先に、珍しい男の人を見た。ちょっと派手だけどお洒落な格好に明るい茶髪、背はそれほど高い方じゃないけれども体のバランスが良くて(スポーツか何かやっているのかもしれない)、割と遊んでそうな雰囲気で…そして何より、驚いた様な表情でこちらをじっと見ているので、気になった。わたしは彼に視線を返しつつ気のせいかとそのままぼんやりと見つていたが、やがてヒカルの「あ」という声にちょっと我に返って「どうしたの?」と尋ねる。ヒカルは「ちょっと止めてくれ」と再びサンダルの底をアスファルトと擦り合わせると、そのままひょいと自転車から飛び下りて、視線の先にいる男に向かって軽く手を挙げた。男はそれで一瞬また目を丸くしたあと、「おー、やっぱり!」と声を上げて唇の端をにっと持ち上げて笑って、ひらひらと手を振りながらこちらに向かって歩いて来た。
 
 

 
 
 
「誰かと思ったら、千石さんじゃないすか」
「うん、久しぶり!相変わらず目立ってるねー、天根くん」

千石と呼ばれたその男は、どうやらヒカルの知り合いらしかった。ヒカルが「どうも。千石さんこそ」と小さく頭を下げると、千石も「いやいや、君には誰も適わないよ」とにこっと愛想よく笑う。わたしはハンドルに手を置いたまま何やら自画自賛気味に親し気に話し込む二人の顔を交互に見比べた。お互いを褒め合う二人はちょっと…いや、結構に鬱陶しかったけれども、確かに二人が並んで立つと妙に華があるように感じた(もっとも、ヒカルの場合は中身を知ってしまっているのでそれほど魅力的には見えないけれども)(だってこいつ昨日も今日もゴムサンダルだし!おっさんか!)。それに近くで見るとこの千石という男、美形という訳ではないけれども何だか雰囲気のある魅力的な顔立ちをしている(…ずっと口元が弛んでる様な気もするけど、それもまた、魅力の一つかもしれない)。美形なのにその日本人離れした雰囲気のせいか、なんだか怖い感じのするヒカルとは、なんだか対照的だ。二人は相変わらず、世間話なのか褒め合いなのかよくわからないトークに花を咲かせている。ヒカルは言った。

「でも、どうして急にこっちへ?」
「うん、占いでこっちの方角がラッキーって出たからね。今日は練習も休みだし、ちょっと遠出しようと思って」
「そうすか。相変わらず占ってるんですね、毎日を」
「うん、占いまくりだよ」

千石はまた唇の端を持ち上げてにこっと愛想良く笑う。にこにことよく笑い、よく表情を変える彼は、滅多に表情を変えないヒカルとはまた対照的で、わたしにとってなんだかとても新鮮に感じられた。「良い占いの店見つけてさ、今度君も一緒にどう?」「いや、東京はちょっと遠いっす」「えー、遊びに来てよ。君と一緒ならどんな女の子も…」弾んだ声で言いかけた彼は不意にわたしに気付いて、ちょっと眉を持ち上げて、ヒカルに尋ねた。

「天根くん、こっちの可愛いお嬢さんは…君の彼女さん?」
「彼女は案の定、俺の彼女です…ぷっ」
「へぇー…なんだ、可愛い彼女さんいるんじゃない。さすが天根くん」
「うぃ」

千石はわたしに向き直ると、「へぇ〜」と再び楽しそうに目を細める。この手のタイプに免疫のないわたしはちょっと困ったようにヒカルに目配せしてみせたが、ヒカルは特に気付く様子もなく、いつもの無表情でじっとわたしを見つめている。(こんにゃろ!)心の中でヒカルをどつき倒してやりながら、わたしが困ったように再び千石を見上げた瞬間、千石が先程よりもずっと近い距離でにこにこと笑顔でわたしを見下ろしていたので、わたしは思わず肩をびくっと震わせて顔を強ばらせた。千石はにこっと微笑んで、言った。

「君、可愛いね!俺、山吹中学3年、千石清純。天根くんとはジュニアの合宿で知り合ったんだ。君は?」
「あ、はぁ…あの…です。
ちゃんかぁ…へぇ、よろしく!それでさぁ、よかったら今度俺とメシでもどう?あ、勿論天根くんも一緒で…」
「は、はぁ…(ヒィ!肩に手が!)」

突然肩に伸びてきた手に思わず身構えつつも抗うことができず、わたしがちょっと体を強ばらせて硬直したその時。ヒカルは千石の手がわたしに触れるよりも早く、すっと腕を伸ばして私の肩をぎゅっと抱き寄せると、千石を真直ぐに見つめたまま、はっきりと強い口調で言い切った。

「それは駄目」
「え?3人で行くのも?」
は駄目。他に連れて行くなら、葵とかにしてください」
「え、葵くん?」
「ええ、あいつならきっと喜んで来ますし。伝えときますよ」
「あ、いや…そういう問題じゃないんだけど…」
「……」
「い、いや…わかったよ、じゃあそうさせてもらおうかな、はは…」

ヒカルの凄みのある端整な顔にじっと見つめられて、千石はしばらく居心地が悪そうに肩を竦めて笑っていたが、やがて気を取り直したように「お、そうだ」と言うと、わたしに手を差し出してまた、にこっと笑う。わたしが驚いたように目を丸くして千石を見上げると、千石はまた唇の端を持ち上げて微笑んで、「友好の印にね」と言った。
わたしはそれでやっと理解して自分も手を差し出すと、差し出された手にそっと触れる。と、千石の手が予想外のタイミングでぎゅっとわたしの手を握ってきたので、わたしは思わずどきっとしてしまった(その手が思ったよりも大きくて男らしかったので、わたしはますますどきどきした)。千石はわたしの手を握って何回か上下に振ると、「女の子っぽくて可愛い手してるね」とにこっと笑う。わたしは照れくさくなって思わず俯くと、「ど、どうも…」と小声で返した。ヒカルはしばらく腕組みをしたままじっと黙っていたが、やがて小さく溜息を吐くと、いつもと同じ、低い淡々とした口調で言った。

「…で、そろそろいいすか。俺達、急ぐんで」
「あ、そうなんだ。ごめんね、時間とらせて」
「いえ。…じゃ、行くぞ。
「え…あ、うん(あれ、急ぎの用事なんてあったっけ?)」

むしろ暇すぎて何もする事がないから自転車で散歩することになったんじゃ…わたしは一瞬驚いたように後ろのヒカルを見上げたけれども、ヒカルは後ろの座席に座ったまま、いつもの無表情でじっと黙っている。おずおずと視線を戻して「じゃあ…」と千石に会釈をすると、千石もにこっと笑って「今度は俺の試合も見にきてね」と軽く手を振る。ヒカルもちょっと振り返って「じゃ、また今度」と短く返事をすると、わたしの背中をぽんぽんと叩いて「行くぞ」と低く言った。

 
 
 
 
 
日曜日の午後、海沿いの緩やかなスロープを風を切って自転車で駆け下りる。シャツの隙間をぱたぱたと風が吹き抜けて、なんだか気持ち良い。通り過ぎる古い畳屋の窓ガラスに、不機嫌そうに眉根を寄せてじっと黙り込んでいるヒカルが映った。わたしは気付かない素振りでしばらく黙ったままペダルをこいでいたけれども、やがてちょっと覚悟を決めると、恐る恐る、後ろのヒカルに声をかけた。

「…ヒカル?」
「なに」
「…もしかして、怒ってる?」
「……別に、怒りは起こってないが…ぷ」

小さく吹き出したものの、言った彼の声はいつもにも増して低くて淡々としていたので、わたしは思わずびくっと肩を強ばらせた。(やばい、怒ってる…!)とりあえず彼の機嫌を直さなくてはと考えてはみたものの、一体何が原因なのか(恐らく千石さんの事なんだろうとは思うけど、具体的にあれのどの部分が彼の中に引っ掛かったのか)いまいちピンと来ない。それでもとりあえず何か謝らなくてはとあれこれ悩みながらペダルをこいでいると、ヒカルの方が先に口を開いた。

「…千石さんは強いし、尊敬してるけど」
「うん?」
「女といる時は、駄目だな」

拗ねた様なその言い方がなんだか妙に可愛くて、わたしはちょっと眉を持ち上げた。「どうして?」ヒカルはちょっと体を動かしてわたしの背中に鼻先を近付けると、また、続けた。

「…人の彼女なのに、触ろうとした。触ったし」
「でも…握手くらい、別にいいじゃない」
「駄目。千石さんの握手は、何かエロい。そもそも千石さんは、存在自体がエロい。それに…」

ヒカルは背を屈めてわたしの背中にそっと額を押し付けて小さく息を吸い込むと、言った。

だって、照れてた」

わたしは思いきり思い当たる所のあるヒカルの言葉に思わずぎくっとしたが、咄嗟に「そ、そりゃ照れるよ!」と声を上げると、「だって相手、男の人だもん」とちょっと顔を赤らめて俯く。ヒカルはしばらく黙ったままわたしの背中を見つめていたが、やがてわたしの背中に額を押し付けたまま、続けた。

「…そんなのおかしい。俺には照れない癖に」
「え、だって…ヒカルは違うよ、だって、特別だもん」
「特別…?」

ヒカルはわたしの言葉に一瞬眉を持ち上げると、ちょっと視線を落として、わたしの「特別」の言葉を反芻するように小さく呟く。ヒカルのその様子に、わたしはまた何か地雷を踏んだのかと思わずちょっと肩を強ばらせて身構えたが、ヒカルは突然納得した様に「…なるほど」と呟くと、ゆっくりと体を起こし、そして何を思ったか突然その長い日焼けした腕をわたしの体に回して、そのままわたしの背中に自分の胸をぐっと押し付けてきた。不意打ちのその愛情表現にわたしは思わず「わっ」と声を上げてバランスを崩しかけて、「あ、危ないじゃん!」と声をあげる。ヒカルは「ごめんなサイ」と反省の色の伺えない口調で淡々と言うと、そのままわたしの背中に頬をそっと押し付けた。

「…よくわからん気もするが、特別なだけに、今回は許しとくべ、つ…ぷっ」
「うん、ありがと…え、でも別にわたし、怒られるようなことしてないよね?」
「…まぁ、気にすんな!」

ヒカルのゴムのサンダルの底が太陽の光で暖まったアスファルトに擦れて、乾いた音を立てる。ちょっと視線を落とすとわたしのちょうどお腹の辺りでヒカルが手を組んでいて、その日焼けした小麦色の手の甲と長い指の男っぽい色気に、思わずどきっとしてしまった。日曜日の午後、海沿いの緩やかなスロープを風を切って自転車で駆け下りる。背中に感じるヒカルの温もりが、なんだかくすぐったい。
 
 
 
 


 

アスファルト/20041003