月に一度のへヴィ級の貧血から鎮痛剤の力で救われたは、上履きのかかとを引きずりながら廊下を歩いていた。通り過ぎる教室のドアの窓からは、生徒達がきちんと椅子に座って黒板を向いているのが見える。何気なく覗いていると中の生徒とちら、と目が合ったけれども、それが何年何組の誰だろうかなんて考える余裕もない。視界から入った情報は、脳に到達する前に消滅していった。

渡り廊下に出ると、体育館から聞き覚えのあるクラスメイトの男子生徒達の笑い声が響いた。それでやっと、今現在が本来なら体育の授業だったことを思い出した。グラウンドを振り返ると、女子生徒達の姿こそは見えなかったものの、短い間隔で体育教師のホイッスルが鳴っているのが聞こえた。じりじりと蝉の音が響き、青々と茂った木はグラウンドに影を大きく広げている。

同じような造りの教室をいくつか過ぎて、三年B組の教室のドアの前に辿り着き、いつもより力の入らない指先をそっと扉に伸ばしたとき、なにげなく俯いた視線の先、わたしのつま先に向かいあうように、黒い学生服の裾から伸びた二つのつまさきがこちらを向いて並んでいるのが見えて、は思わずはっと肩を跳ね上げた。「ごめん、」あわてて頭を下げて顔をあげたとき、の表情はすでに硬直していた。

「あ」

見上げた視線の先にいたのは、学校で有名な問題児グループのトップであり、のクラスメイトでもある桐山和雄だった。クラスの男子はおろか、沼井達のグループから見ても異質な作りもののような端正な顔立ちは、国語の教科書で見た能面のようだと思った。今、自分を見下ろしている桐山の顔には、自分と出会ったことへの驚きや、進路を妨害されたことへの不快感など、何らかの表情が浮かんでいてもいいはずなのに、桐山はいつも通り、感情の読み取れない能面のような静かな表情でゆっくりと瞬きをして、静かに一歩後退すると、薄く形の良い唇をそっと開いた。

「…すまない」

初夏の蒸し暑さが、桐山が言葉を発したその一瞬だけしんと冷えたような気がした。

意外だった。喧嘩をふっかけてきた五人の先輩を一人で返り討ちにしたとか、家に数十人の使用人がいるだとか、普通ではない噂の絶えない桐山が、自分の行く手を遮ったはずの自分に、まさか素直に、それもごく自然に、ストレートな謝罪の言葉を向けるとは思わなかった。はしばらくあっけにとられたようにぽかんと口を開けていたが、あわてて言葉をかけた。

「ご、ごめんなさい」
「…いや」

いつも彼を間近に見つめている訳ではなければ、特別関心を持って観察している訳でもない。ただの気のせいかもしれないが、見上げた桐山の顔はいつもより少しだけ青白く、引き攣っているように見えた。桐山は少しだけてのひらを教室の方に向けて、先に入れと仕草で伝えた。は思ったよりもずっと紳士的な彼の対応に驚き、戸惑いながらも、「ありがとう」と小さく会釈をして、教室に一歩足を踏み入れる。そして桐山の前を通りすぎるとき、自分に合図をしたてのひらが、すっと上がるのを見た。何気なくそれを振り返ったその時、にわかに目がくらんで、突如としてバランス感覚を失った足がもつれた。

(あ…)

その時、は見た。

桐山の顔が青白かったのは、おそらくわたしの気のせいではなかった。桐山の端正な顔が一瞬だけぴくりと眉根を寄せて歪み、素早い挙動で持ちあがったその薄いてのひら、長い指がすっとそのそのこめかみのあたりに触れた。その仕草と表情から、彼の頭が何らかの感覚に襲われているのがわかった。しかしそれは一瞬で、桐山の瞳が崩れようとするわたしの姿をとらえたときにはもう、彼の顔に浮かんだわずかな表情は消え、ただ素早くそのてのひらをわたしの背中に回して力を込めて抱きよせた。

まるで映画をコマ送りで見ているようだと思った。男子にこんな風に抱き寄せられたことなんてなかった。きっと、クラスでもこんなに自然に、ごく当たり前のようにクラスメイトの女子を抱き寄せられる男子はいない。学校でも一、二位を争うプレイボーイの三村であっても。

桐山の左腕の中で、遠く遠くに、うっすらと蝉の音を聞いた。時間にすればほんの一瞬に過ぎなかったかもしれないが、わたしにとっては、まるで何秒間も彼の腕の中にいたように感じられた。桐山はゆっくりと腕の中のわたしを見下ろして、静かな口調で尋ねた。

「優れないのか」
「あ…ごめん!うん、ちょっと…」

今のにとって、桐山の半袖のシャツの素材と、自分のセーラー服の素材は、あまりにも薄く感じられた。そっと桐山の胸の前に手を差し出すと、桐山の冷たい手はすっと床に向かって降りた。自分なりに心の動揺を隠しつつ、は桐山の顔をもう一度見上げる。異性の顔をこれほどまでに近くで見るのは初めてだったし、また、異性にこれほどまで近い距離で見つめられるのも初めてだった。長い睫毛とくっきりと端正な二重瞼が印象的な切れ長の目が、じっと自分を見下ろしていた。

桐山はやがてすっと身を引くと、扉に向き直って一言、静かな口調で告げた。

「なら、ここで休んでいたほうがいいんじゃないか」
「…う、うん。そうしようかなって」
「そうか」

が答えるのを聞くと、桐山は背中を向けたまま一言だけそう言って、教室を後にした。最後に見た白いシャツの背中は、差し込む日差しを受けて、その裸の背中をうっすらと浮きあがらせた。そして彼がいなくなってやっと、教室がうるさいくらいの蝉の音で満たされていたことに気づいた。

(…頭、痛いのかな)

背中を抱き寄せてくれた桐山のてのひらの温度を思い出すと、胸がぎゅっと痛んだ。
 
 
 
 
 


 
空蝉/20080717