初めて和雄を見た時は、心臓がざわざわして、背筋がうっすら寒くなった。 見た事のない学校の黒い学生服を着ていて、色素の抜けたようなふわふわの金髪に、作り物みたいに端正な顔。スーツを着たわたしの父親の隣で、じっと俯いていた。「今日からうちでしばらく面倒を見る事になった、『桐山和雄』だ」和雄は視線も上げず、一言も言葉を発しなかったけど、父親はそれに別段驚く様子もなく、用意されたマニュアルを音読するみたいに彼を家族に紹介した。そして和雄は家を出て行ったお兄ちゃんが使っていた一階の部屋に連れていかれた。わたしの心臓は突風に吹かれた木々みたいに、ざわざわ音を立てて鳴り止まなかった。 彼は父親の遠い遠い親戚の子供だと聞いた。それをどうして、今突然家で預かることになったのかはよくわからなかったけど、でもなぜか深く聞いてはいけないような気がした。正体のわからないものには近寄らないほうがいいと思って、わたしは和雄が家に来てからしばらくの間、ご飯を食べるとき以外はずっと二階の自分の部屋と洗面所をこそこそ行ったり来たりしていた。でも、和雄は時々、食卓に姿を表さないことがあった。でも両親は、何も言わなかった。 あまり和雄とも顔を合わせなくなったある日、緊張の緩んでいたわたしがリビングのソファでホットミルクを飲みながら母親の通販雑誌に目を通していると、ふいに玄関のドアが閉じる音がした。 足音をころして和雄の部屋の前に行くと、部屋のドアは開いているようだった。ドアの隙間から部屋の中を覗き込もうとしたその瞬間、わたしが手をかけていたドアノブがぐいっと部屋の中に引っ張られて、わたしは思わずそのまま和雄の部屋に突っ込んだ。派手に転んで、部屋のカーペットに両膝をついたまま、おそるおそる顔を上げると、そこにはドアノブに手をかけたまま、じっとわたしを見下ろしている和雄の姿があった。ふわふわの金髪と対照的なくすんだ赤が、彼の額にべったりと塗りたくられていた。彼はしばらく表情の読み取れない人形のような顔でわたしをじっと見つめていたけれど、やがてゆっくりと唇を動かした。 「…なんだ」 それが初めて彼の声を聞いた瞬間だった。 怖かった気持ちに変わりはないけど、和雄の傷を手当てしたあの日から、わたしの中で和雄に対する気持ちが少しだけ変化した。でも、ご飯はいつもと同じ食べ方で食べた。和雄と少しだけ仲良くなったこと、両親には言わなかった。でも和雄がどうして返り血を浴びたり、怪我をしていたのかは、よくわからなかった。見た目通りに不良で、町中で喧嘩でもしてきたのかな、くらいにしか、わたしの想像力では考えることができなかった。 相変わらず、和雄は家にいたり、いなかったりした。でも時々、血まみれになって帰ってくることがあった。気付いたときは、わたしが和雄が負った怪我の消毒や手当てをした。和雄は静かな表情で、じっとわたしの制服の第二ボタンのあたりをいつもじっと見つめていた。始めはその和雄の視線ですら怖くてびくびくしていたけど、いずれ、二人で過ごす時間が少しだけ、ほかの時間と違って感じるようになっていた。 ある時、わたしが和雄の傷を見ていたとき、うつむいた和雄のはだけたシャツの隙間から、和雄の裸の薄っぺらな胸が見えた。ちょっとドキッとしたそのとき、なだらかな肌のラインに、何か烙印のようなものが刻まれているのがわたしの目に止まった。一瞬だったけど、その烙印には、管理番号のような数字と、大東亜共和国政府のシンボルマークが刻まれているように見えた。驚きのあまり、和雄に触れていた手が思わず止まってしまった。和雄は少しだけ眉を持ち上げて、わたしを見上げた。わたしは驚きのあまり、和雄の顔を見つめたまま、言葉を探していた。和雄は何も言わず、動揺しているわたしをじっと見つめていた。すいこまれてしまいそうに、綺麗な顔だった。 見なければ良かったと思った。どうしてわたしの目は、あんなものを見つけてしまったのだろう。和雄はきっと、父親の遠い遠い親戚なんかじゃなかった。初めて和雄と出会ったあのときのように、わたしの心臓はざわざわ音を立てて震えていた。わたしの心は泣いていた。 次の日の朝の食卓に、和雄の姿はなかった。あの烙印の事を思い出して、心臓が止まってしまいそうなくらい怖かった。けど、わたしはできるだけいつもと同じようにご飯を食べた。家族には何も聞かなかった。いつもと同じように学校に行って、帰ってきて、晩ご飯を食べた。晩ご飯の席にも、和雄の姿はなかった。それでもわたしは何も聞かなかった。 そして、そんな生活が六日目に差し掛かった夕方、和雄は唐突に家に帰ってきた。わたしは思わず階段を駆け下りて、玄関に立っていた和雄の前に飛び出した。 「和雄!」 和雄の制服には乱れひとつなく、傷もなかった。逆にそれが不気味で一瞬背筋が寒くなった。わたしはあふれてくるいろんな感情をおさえて、和雄の制服の胸元、ちょうど烙印のあったあたりに、そっと手で触れた。和雄は何かを考えるような表情でじっと黙っていたが、やがて呟くように唇から漏らした。 「…」 驚いた。和雄がわたしの名前を呼んだのは初めてのことだった。和雄が無事に帰ってきたからなのか、和雄に名前を呼ばれたうれしさなのか、和雄が行方不明になっていたことへの不安なのか、未来の見えない不安なのか、訳もわからず目から涙があふれて、思わず和雄の胸にしがみついて顔を埋めた。和雄は筋張った長い指で、わたしの背中をそっと抱き寄せた。 その日の夜、家族が寝静まったあと、わたしは和雄の部屋にもぐりこんで、同じベッドの中で眠った。暗闇の中で見た和雄の裸の胸の烙印に、苦しいくらいに胸が痛くなった。 その次の日の夜、和雄はまたいなくなった。その次の日の朝には帰ってくると思ったけど、和雄はやっぱり帰ってこなかった。両親はやっぱり何も言わなかった。それから三日目の真夜中、和雄は家に帰ってきた。物音に気付いて目を開けると、和雄はわたしのベッドの前に立っていた。わたしは慌てて飛び起きた。 「和雄!帰ってき…」 スリッパに足をつっかけて立ち上がろうとしたところで、わたしはかたまった。和雄の衣服は、全身返り血で真っ赤に染まっていた。その手には血液にまみれてどろどろになったナイフが握られていて、そのナイフには、見覚えのある模様の生地の切れ端が引っかかっていた。わたしは思わず息を呑んだ。その生地は、寝る前に廊下ですれ違った母親が着ていた寝間着のものだったから。 思わず口元をおさえて、後ずさりした。開け放たれたドアから見える廊下には、おびただしい量の血痕が見えて、生臭い血液の臭いがわたしの部屋まで広がってきていた。和雄は母親の衣服の破片のついたそのナイフを右手に、くすんだ赤にべっとりと濡れた顔で、静かにわたしを見つめている。初めて目が合ったあの時と同じ、人形のような表情だった。 「や…やだ、」 和雄は右手にナイフを握ったまま、ゆっくりとした足取りでわたしの元へ歩み寄った。震える足で後ずさりし、ベッドの脚にこつんとぶつかった。和雄はすぐにでも手が届くまでの距離まで歩み寄ると、そっと左手をわたしの頬に向けて伸ばした。破れてはだけた和雄のシャツの胸元から、大東亜共和国のシンボルマークの烙印がはっきりと見えていた。わたしはがたがた震えながら、声にならないような上擦ったかすれた息を吐いた。 「どうして…」 和雄はそっと左手を降ろすと、かわりにナイフを握った右手をわたしの顔面に向けた。恐怖で真っ白になった頭では、和雄が何を言っているのかひとつも理解できなかった。ナイフを構えた和雄が、ゆっくりわたしに近づいてくる。わたしはぜえぜえと止まらない呼吸を繰り返しながら、焦点の定まらない目で和雄を見つめていた。和雄は赤黒く濡れたナイフの刃の先をわたしの頬に当てると、空いた左手で静かにわたしの背中を抱きしめる、和雄の筋張った長い指が、わたしの背中をたぐるように力を込めるのを感じた。 「 」 吐息にも似た低い掠れた声を耳元で聞いたのを最後に、わたしの呼吸は止まった。和雄のふわふわの柔らかな金髪が、うなだれるようにわたしのうなじを辿って落ちた。重なった二つの体のつま先から、赤黒い血溜まりが広がっていく。血と肉片にまみれて切味を失った鈍色のナイフが、二人の足下の血溜まりを転がっていった。
涙 |