ブザーが響く。「ああ、終わった」ため息を吐いて、天井を仰いだ。澤村がちょっと照れくさそうに笑って、ちら、と目で合図を送る。俺はそのらしくない仕草がなんだかおかしくて、ちょっと笑った。額を伝う汗を拭おうと、そっと腕を持ち上げる。しかしその瞬間、手にちょっと奇妙な痺れが走った。先程の騒ぎの中で男にバットで殴打された部分が突然ぴりぴりと痛みだす。試合に夢中になるうちにすっかり忘れていたが、どうやら少し感覚がおかしくなっているようだ。まあ、特に問題はないだろう。俺はすぐに挨拶に並んでいる列に加わった。
 
 
 

 
涙に寄せて


 
 
 
 
(―――ん?)

一瞬、ベンチから立ち上がったが俺を思いきり睨んだような気がした、が。

(――気のせいか…)

は両手に清涼飲料水のコップを持ってぱたぱたと部員達の間を駆け回っている。小林はベンチにつくと、首筋を流れる汗をぬぐった。周囲のざわめきが、妙に遠く聞こえる。後輩のお疲れ様でした、という声に、「ああ」なんて、適当な相槌を打つ。向かいのベンチの桑田はベンチにぐったりと体を投げ出して、後輩達にうちわでぱたぱたと仰がれている。小林はしばらく体育館を忙しく動き回る選手やマネ−ジャ−達の様子をじっと見つめていたが、やがてタオルで鼻の辺りをぐっと拭うと、小さくため息を吐いた。こめかみから顎へ、つうと一筋汗が伝い落ちた。と、不意に、鼻の先に何か冷たい滴がぽたりと落ちる感覚がして、小林は目だけ動かして目の前の影を見上げる。するとそこには、恐ろしく不機嫌な表情で自分を睨んでいるがいた。初めて見るのその表情に、小林は驚いた様に目を見開いて硬直する。は黙ったまま、小林の眼前に清涼飲料水の入ったコップをずいと差し出した。小林はタオルを鼻にあてたまま、ただ驚いた表情で呆然とを見つめる。はしばらくコップを差し出した姿勢で小林が受け取るのを待っていたが、やがてちょっと苛立ったように「はい!」とちょっと声を荒げると、再びずいと小林の眼前にコップを差し出した。中の清涼飲料水が勢いで飛び出して、小林の傷の残る額に跳ねた。

「あ…ああ、すまん」

慌てて返事をして、小林はこの状況にはちょっと呑気な動作で、それを受け取ろうと手を伸ばす。その瞬間、は乱暴にコップを小林の手に押し付けると、一瞬きっと思いきり小林のことを睨み付けて、そのままくるりと背を返してずんずんと歩いて選手の中に消えた。小林は呆気に取られたような顔で、その後ろ姿をただ見つめていた。

(―――?)

一瞬、俺を睨んだ目に涙が滲んでいたように見えた。その理由は、わからないけれども。

(…あれは…怒っているのか?)
 
 
 
 
 
 
 
電車に乗っている間も、は決して自分の方を見ようとしなかった。いつもなら試合が終わって移動を開始すると、すぐに隣にやって来ては今日の自分のプレイについて目を輝かせて話し始めるし、離れた場所にいても時折こちらにちら、と目を向けては、嬉しそうににこっと微笑んだりしているところなのだが、今日は側にも来なければ目を合わせようともしない。小林は肩に掛けたずっしりと重いスポーツバッグを降ろすのも忘れて、自分からずっと離れた場所で成瀬達と談笑しているを見つめていた。

(…何をそんなに腹を立てているんだ、あいつは)

今川はその隣でしばらく小林の横顔を見つめていたが、やがてちょっと困ったように笑って、言った。

「…のこと、気になるか?」
「あ…いや、そういう訳では」
「にしては、さっきからずっとのこと見てるじゃないか」

ちょっとからかうようなその今川の言葉に、小林は少し頬を紅潮させて、ちょっと上擦った声で「いや…ち、ちがう」と返す。今川は「照れなくていいんだぞ」とまたからかうように笑っていうと、ふいにちょっと考え込むように俯いた。突然のその表情に、小林はちょっと眉を持ち上げる。今川は息を小さく吸って、続けた。

、さ…」

電車がぐらりと揺れて、今川は慌てて吊革をちょっと握り直す。小林は次に続く言葉に、ごくりと唾を飲んだ。妙に口の中が乾いている。今川は言った。

「あいつ、先に会場入りして準備してただろ?それでお前が出て行くとことかそれに至る経緯とか見てなかったからさ…ずっと、すげえ心配してたんだぞ、お前のこと。お前がこんなに遅れるなんて、何かあったに違いないって」

ふと、先程コップを乱暴に突き出して自分をきっと睨み付けたの表情が不意に頭を掠めて、ちょっと憂鬱な気分になる。小林は渋い顔になって一つ咳払いすると、続けた。

「…そうとは思えん」
「なんでだ?」

小林は何事か言おうと唇を動かしかけたが、すぐにちょっと複雑な表情になると、俯いた。人々の呑気で楽し気な話し声とがたんがたんと低く響く電車の音がこの沈黙の中で、妙に大きく聞こえる。小林はしばらく俯いたままなにごとか考えていたが、やがてちょっと顔をあげると、渋い顔でぼそぼそと言った。

「…俺はそもそも、女の考えることはわからん。の考えることも」
「小林…」

小林からたっぷり数メートル離れたところで、の楽し気な笑い声が響く。それで小林はぴくりと表情を険しくすると、視界の中にが入らないように、窓の外にふいと視線を逸らした。がたん、がたんと低い音を立てて、電車が揺れる。今川はしばらく複雑な表情で小林の背中を見つめていたが、やがてちょっと俯くと、呟くように言った。

「…お前がのことを大切に思うんなら…きっとあいつの気持ち、わかってあげられるはずだよ」

小林は窓の外に視線をやったまま、何も言わなかった。今川は少し哀しい顔で、視線を落とした。窓の外の景色は、スピードを上げてどんどん移り変わっていく。がたん、と低い音を立てて、時折車両が少し揺れる。「次は渋谷、渋谷です」車内放送の声が、どこか遠く聞こえる。その時、二人の耳に、成瀬達と会話しているの声が届いた。
 
「じゃあ私、ここで降りるね」
「え?先輩って、家渋谷じゃないすよね?」
「ううん。ちょっと学校寄って、部室の片付けしてくる。散らかってるから」

「うわー先輩、真面目だなぁ」成瀬達の呑気な感嘆が響く。今川はを振り返った。は救急バックと荷物をよいしょと肩にかけると、今川の視線に気付いてにこ、と微笑む。そしてすたすたと二人の元へ近付く。一瞬、三人の間に緊張が走る。しかしは特にそれを気にする様子もなく、ぴりぴりとした空気には似つかわしくない明るい笑顔で言った。

「今川、わたし、部室の片付けしてから帰るね。今日はお疲れさま」
…」

『渋谷、渋谷です』

「じゃあ、また月曜日に」

ドアが開いて、人々がぱらぱらと降りはじめる。は今川ににこっと微笑んで手を小さく振ると、くるりと方向転換し…まるで小林の姿など目に入っていないかのようにすたすたと彼の横を通り過ぎて、電車を降りた。今川はちょっと困ったように、小林の背中を見上げる。小林は、さも何事もなかったかのように先程と変わらずただ無言でそこに立っていた。人が降り終えたドアから、ホームで待っていた人々が次第に電車の中に乗り込んでくる。すぐに、プルルルルと発車サイン音が響いた。今川はちょっと考えるように俯いたが、すぐに顔を上げて小林に何事か伝えようと、唇を開いた。しかし、その瞬間。

「あ…お、おい!」

小林は突然バッと顔を上げてスポーツバッグを肩に掛け直したかと思うと、の後を追うようにそのまま勢い良く電車を飛び出した。予想外のその光景に、今川も部員達も目を丸くしたまま、思わず言葉を失う。電車のドアが閉まる頃には、小林の後ろ姿はすっかりホームの人ごみの中に消えていた。二人の部員を渋谷駅に降ろしたまま、電車は再び動き始める。しばらく誰もが唖然として黙り込んでいたが、やがて成瀬が呟くように言った。

「え…小林さんと先輩って、…?」

答える者は、いなかった。
 
 
 
 
 
 
 
(なによ、なによ、なによ!)

電車を降りた途端に苛立ちが胸に込み上げてきて、は思わず泣きそうになったけれども、ぐっと堪えた。人ごみの中を掻き分けて抜け出すと、早足で上南高校へと続く緑道に入る。自分勝手で気まぐれな感情だけど、私はすごく、苛立っていた。

(いないと思ったら遅れて来るし、遅れてきたと思ったら体中怪我してるし、しかも何の説明もないまますごく楽しそうにバスケしてるし、試合が終わったら何か説明してくれるかと思ったらやっぱり何事も無かったかのような爽やかな顔で「ああ、すまん」とか言ってるし!なにより、額の結構大きな傷だって向こうは気付かれてないつもりかもしれないけど、わたしは気付いてた!)

肩をずり落ちてくる救急カバンをぐっと上に持ち上げながら、はまたちょっと歯を食いしばる。何もかもに苛立っていた。額に傷を作って帰ってきた小林の行方不明の時間と、その手当てを私に頼んでくれなかったことと、わたしがこんな気持ちでいるなんてきっと気付かないだろう小林の鈍感さと、自己中心的に苛立っている私の小ささと、今一人でここを歩いている私の虚しさと、たくさんの感情が複雑に絡み合いながら頭の中をぐるぐると回った。

(ちくしょー、青春やめたい!)

赤くなった鼻をずず、と啜ると、はまたずんずんと胸を張って歩き始める。また救急カバンがずり落ちて来て、は乱暴にそれを肩に掛け直した。の心中には不似合いな夏の爽やかな風が吹き抜けて、緑の木々をざわざわと揺らした。それにしても、良い天気だ。

 
 
 
 

本当は「部室の片付けをするから」なんて、あの時、ちょっと離れていた彼にさり気なく近付いて、願わくばちょっと意識してもらうための口実に過ぎなかったのかもしれない。まあしかし、確かに部室はちょっとだけど、散らかっている。言ってしまった以上はやるしかない。くそ。
は肩に下げていた荷物を置くと、取り合えず手に持っていた救急カバンの中身から補充することにした。今日の練習試合で、既にテーピングは大分使ってしまっている。は使い切ってしまったテーピングとゴミを集めると、部室の隅にあるゴミ箱に捨てた。ラッキーなことに、ゴミ箱の中は空だった。これでどうにか、仕事が一つ減る。
備品の入った棚からテーピングを3つと、湿布を何枚か取り出して、救急カバンの中にしまった。エアーサロンパスも取り出して、中身を確かめるように少し左右に振り…そして、戻した。ざっと見た感じ、他に不足しているものは無さそうだ。ふぅと小さくため息を吐いてカバンを閉めると、立ち上がった。ちょっと部室の中を見回してみる。そいて不意に、ロッカーに目が止まった。1歩、2歩…歩いて、近付く。そして、『小林純直』と書かれたロッカーの前で立ち止まった。

(…あーあ、こうしてみると…なんかすごく、遠い人みたい)

クールで寡黙な彼は、ホットでうるさい私とは、釣り合わないのかなぁ…

きっと小林と似合う女性というのはあれだ、色白で黒髪で美人でおしとやかですらっと細くてお上品で古風な感じで…小林の表情や仕草一つで彼の気持ちをすぐに読み取って、あくまでも自然に、さりげなく彼をサポートできて、でもしっかりと存在感はあって…とにかく、言葉を使わなくても彼のことを理解できる人だろう。
でも、私にはできない。そりゃもう2年の付き合いになるし、ちょっとしたことなら何となくは感じとれるけど…でも、今日みたいな時はやっぱりわからないし、それに、わかりきってることだって言葉にしてくれた方が安心する。だって、私達は親しい友達で仲間である以前に、ともかく、他者なのだ。ともかく。
そもそも人間が言葉がなくても皆通じ合える生き物だったら、言葉なんて必要なかったじゃない。必要だから、ここにあるんでしょ。わたしは、小林の中にある気持ちをちょっとでも共有してたくて―――それとも何、もしかして、私に伝えることなんて何もない?それとも何…

(…もしかして、私のことなんてどうでもいい?)

あっという間に、胸の中に怒りとも悲しみともつかぬ複雑な感情が膨れ上がって来た。鼻がつんと痛くなって、目頭が熱くなる。やばい、泣く。思った時にはもう、泣いていた。ああ、自己中にもそろそろ嫌気がさしてくる。これ、何涙なんだろう。自己中涙?ああ、こんちくしょう、もういっそ、それでいいや。むしろそれに違い無い。私にぴったり。

涙が次々溢れてきて、悔しかった。

小林、もっとわたしに構ってよ!…ちがう、小林、もっと私に構われたがってよ!私が構ってくれないことに傷付いた顔をしたりしてよ!渋谷駅でわたしが降りる時、ちょっと私の腕を掴んで引き寄せたりしてよ(私が見えないフリしてるからって見えないフリで返しやがって、ちくしょう!)!
愛してよ!私が小林に夢中みたいに、小林も私に一喜一憂したり、傷付いたりしてよ!私が小林のこともっと知りたいみたいに、小林もわたしのことを知りたがってよ!言葉を望んでよ!ああもう、わかってる!自己中でごめん!

ため息をついたら、涙がまたこぼれた。

(この世界の愛っていうものが全部、ギブアンドテイクだったらいいのに…)

はきっとロッカーの小林純直の札を睨み付けた。そして、叫んだ。

「…う、うう…この……うんこばやし!!」

握った拳を小林のロッカーに叩き付けようとして…そっと、降ろした。左右に首を振った。ばかばかしい、女の醜さ全開じゃないか。いくらなんでも、わたしはそこまで落ちぶれるわけにはいかない。わたしはまだ、小林のこと、諦めたわけじゃない。多分。

が溢れる涙を拭いながら、またちょっと俯いた、その瞬間。
 
 
 
「…言ってくれるな」

聞き覚えのある声に、はばっと目を見開いて、慌てて背後を振り返った。するとそこには、腕組をして部室の入り口にもたれて、自分のことを見つめている小林純直の姿があった。はあまりの衝撃に思わず顔を覆って、よろよろと後ずさる。小林はすっと一歩歩いて自分のスポーツバッグを床に置くと、側にあったベンチに腰掛けた。そして、言った。

「…話してみろ、とりあえず」
「な、なんのことよ」
「…お前が不貞腐れてる理由について」

言って、彼はふっとを見上げた。はそれで自分が泣いていたことを思い出して咄嗟にくるっと背を向けてぺたんと床に座り込むと、ちょうど足元にあった救急カバンに手をかけ、さも片付けの作業をしているかのように振る舞う。小林は落ち着いた声で、続けた。

「試合に遅れたのは、悪かった。しかしお前が気に入らないのは、その事じゃないんだろう?」

意外にも、お見通しだったらしい。はちょっとどきっとしたが、それでもなんとか平然を装い、黙って救急カバンの中から先程補充したテーピングや湿布を取り出す。小林はしばらくが答えるのをずっと待っていたが、やがてちょっとため息を吐いて、言った。

「そこでは話しにくい。こっちに来い」
「いいよ、…今、カバンの整理してるし」
「それごとこっちに来ればいい」

はまたちょっと、びくっとした。確かに小林の言う通りだが、しかし不細工五割増しのこの汚い泣き顔を見せるわけにはいかない。は小林の位置から顔が見えないように俯くと、消毒液をカバンの中から取り出し、内心冷や汗をタラタラと垂らしながら、真面目にカバンの整理を行っているように振る舞う。小林は黙ったままその後ろ姿を見つめていたが、やがてすっと立ち上がると、の元まで歩いて、再びの名を呼んだ。それでもが聞こえないフリでカバンの整理を続けるので、小林はすっと手を伸ばしてその腕を掴むと、ぐっと引っ張って強引に立ち上がらせる。「あ」の唇から声が漏れ、の手から、絆創膏が床にぱら、と落ちた。次の瞬間、と目が合った小林は、思わずその目を見開いた。

…お前、」

小林は泣き腫らしたらしいの顔を見て思わず呟くと、掴んでいた手の力を無意識のうちにふ、と緩めた。小林の顔を見た瞬間、何だか全てがどうでもよくなるような気持ちと一緒に、また胸がぎゅっと熱くなってきて、あっという間に頬を一筋、涙が伝うのがわかった。小林は驚いたように目を丸くして、を見る。は既に力の緩まった小林の手を振り払うと、熱くなった顔を覆った。小林はどう声をかけていいのかわからない様子で、言葉を呑んだ。

「見ないで」
…」
「いいよ、平気だから!もういいってば…帰って!」

その瞬間、ちょっと目を見開いた小林は、少し傷付いたような顔をしたように見えた。は自分の喉から嗚咽を漏れるのを感じた。これ以上、こんなぐちゃぐちゃな私は見られたくなかった。しかし小林は動かなかった。じっとを見つめたまま、少しの沈黙のあと、言った。

「…訳を、話してくれ」
「いいよ、いいってば!やだ、いいから、もう…」
「お前の良い悪いじゃない、俺の問題だ」

小林はの声を遮るように、強い口調で言った。続けた。

「言ってくれ。俺にはお前の考えることはわからん」
「じゃあ聞かなくていいじゃない!どうせ聞いたってわかんないんでしょ」
「…ッ!」

小林はその言葉に、怒ったように目をかっと見開いた。そして、今までにの前では見せたこともないような顔で怒鳴った。

「わからんから聞きたいのだ!」

その時、はたと気付いた。は顔を覆っていた手からあっという間に力が抜けるのを感じた。そっと、彼と目を合わせる。小林はどこまでも真摯な顔で、自分を見下ろしていた。

(わからないから、聞きたい、って…)

ついさっき、自分があんなに強く思ったことだった。気付いた。

わたしも小林も、一緒?

「…すまん」

彼は怒鳴ってしまったことを後悔しているようだった。ちょっと頭を掻いて、渋い顔で俯く。私は、早く彼に何か言わなきゃいけないと思った。でも、咄嗟に良い言葉が浮かんでこなかった。ああ、思いを言葉にするのは、想像以上に難しい。それでもとにかく、伝えようと思った。しかしが何かを口にするより先に、小林が落ち着いた声で言った。

「…確かに、聞いたところで俺に理解ができるかはわからん。が…」

そこまで言うと、彼はちょっと息を吸った。そして、吐き出すように言った。

「…話を聞かぬ事には何も始まらん。俺はお前のことを、できるだけ理解したいと思っている」

私はしばらく、黙っていた。彼も黙って、視線を落としていた。私は泣いた。

思い知る。無口で無愛想な小林が好きで、ちょっと厄介者で扱いにくい小林が好きで、時々彼に触れようとしては一人で傷ついて、でも傷付いたのはちょっと難しい性格の彼のせいだってことにして、女の子への接し方を知らない不器用な彼のせいだってことにして、自分自身の行動は疑いもせず、わたしは“難しい男を好きになってしまった可哀想なヒロインの図”に一人で勝手に酔っていた。今まで小林にこんな姿を見せてきたのかと思うと、本当に恥ずかしかった。私はなんて愚かで、醜いんだろう。

「…ごめんね…ごめん、小林」
「…何を謝る」
「わたし、…最低…ほんと、ごめん…」

突然泣きじゃくりはじめたに、小林は少し狼狽した様子でその肩に触れようとして…思わず、その手を引っ込めた。は相変わらず、肩を震わせながら小さく嗚咽を漏らして泣いている。小林はしばらく複雑な表情でじっと黙っていたが…やがて再びそっと手を伸ばすと、慣れない手付きで、の頬に落ちた髪をそっと払ってやった。の顔は涙でぐしゃぐしゃで、とても綺麗な泣き顔とはいえなかったけど、小林の眼差しはどこまでも静かだった。
小林はできるだけ優しい慰めの言葉を探していたが、どうにも思うような良い言葉が思い付かず(「そもそも自分で泣かしておいて、後から甘い言葉で慰めるなんていうのもおかしな話だろう」)、困ったように視線を彷徨わせた。が不意に、言った。

「…私、なんか、…ごめん、どっから…話したら、いいのか…」
「…落ち着け。それからで構わん」
「うん…あの…あの…ね、」

言いかけた彼女が、不意にぴくっと動きを止めた。そして一瞬の間を置いて、ばっと顔を上げる。驚いたように自分を見る小林のその金色の前髪に触れ…そして、言った。

「…あ」
「…?」
「…頭の傷!」

小林は驚いたように、目を丸くした。
 
 
 

 

 
 
 

 

 
 
「…でね、私ちょっとほら、自己中じゃない?だから、ちょっとむかついちゃって」

顔を洗ったあとの彼女は先程の啜り泣きはどこへやら、いつものあっけらかんとした彼女に戻っていた。ベンチに座らされた状態で、彼女の顔を見上げる。と、額からツウと流れて来た消毒液が危うく目に入りそうになり、慌てて目を瞑った。

「でもそんなことになってたなんてビックリだよ…でも、無事でよかったね、ほんと」
「ああ…しかし、手当てしてくれるのは有り難いが、消毒液を使う時はせめて…」
「コットン?あるよ、ここに」
「使わんか」

消毒液は小林の顎を伝って、制服の膝にぽつん、と染みを作る。は「ごめんごめん、出し過ぎちゃった」と笑うと、ぽんぽんと柔らかく小林の顎を拭いた。小林は目を渋い顔でぎゅっと瞑ったまま、思った。やはり、という生き物は、俺には理解できないかもしれん。それに、この異常なまでの切り替えの速さは何なんだ…。は小林の額にそっとコットンをあてて傷口の様子を覗き込みながら、言った。

「痛かった?」
「…いや。急いでたからな…あまり覚えとらん」
「わ、小林ってまつげ長いんだね!かーわいー」
「人の話を聞け」

「冗談よ、冗談!」言って、けらけらと笑う。小林は目を開けてうんざりしたような目でを見ると、はあと大きくため息をついた。…もしかしたら、こいつの思考回路を理解するのは俺じゃなくても不可能かもしれん。あらかじめ切っておいたガーゼを小林の額の傷にあて、テープを切ると、は慣れた手付きでそれを小林の額に貼っていく。小林はしばらく疲れた表情で床に視線を落としていたが、やがて、すぐ間近にある彼女の顔をそっと見上げた。今にも自分の頬に触れそうな髪や、蛍光灯の光を受けてきらきらと輝く目や、少し赤く染まった頬や、女性特有のふっくらとした柔らかそうな唇…手をのばせば、すぐに触れられるような、その…

(は、俺は何を)

不意に、我に帰る。無意識のうちにの唇に見とれていた自分に気付いて、小林はその顔をぼっと真っ赤に染めた。手当てを終えたは「はい、できた」と満足気ににっこりと笑い…そして、顔を真っ赤にして俯いている小林に気付くと、ちょっと目を丸くした。しばらくちょっと驚いたように彼を見つめていたが、やがて何かに気付いたようにちょっと眉を持ち上げると、にっと不敵な笑みを浮かべて言った。

「小林、今、もしかして…」
「…ち、違う!」

小林の顔が、耳まで真っ赤に染まる。はそれでますますおかしそうに笑うと「きゅんとした?」とからかうようにその耳元に囁いた。小林はかっとなって「やめんか!」と怒鳴ると、の肩を掴んでぐっと自分から引き剥がす。と、不意に、真正面から向き合う形になって、小林はの肩を掴んだままちょっと目を見開いた。はちょっと微笑んで、言った。

「…ねぇ」
「…なんだ」
「…ちょっとだけ、抱きしめてもいい?」

小林は驚いたようにちょっと目を丸くした。そしてしばらくその表情のまま固まっていたが、やがて少し頬を紅潮させて渋い顔で俯き、周囲に視線を彷徨わせると…突然、掴んでいたの肩を自分からぐっと抱き締めた。予想外の彼の大胆な行動に驚いて、も思わず頬を赤く染める。いくら仲直りした勢いでも、これはちょっと上手くいきすぎなんかじゃないかとも思ったけど、はそっと目を閉じて、とりあえず小林のぬくもりに甘えることにした。そっと手を回して小林の背中を抱き締めると、小林の心臓の音が途端に近くで聞こえた。

「…小林」
「…なんだ」
「…意外と大胆なん」
「だまれ」

言い終える前に返って来たいつも通りの不機嫌な声がなんだかおかしくて、はちょっと吹き出した。そっと目を閉じて、彼の温もりを確かめるようにその首筋に鼻先を擦り寄せ、肺一杯に彼の匂いを吸い込む。先程の言葉とは裏腹に小林の腕が少し震えているのがまたおかしくて、はまた、笑った。

「…ねえ」
「…なんだ」
「…色々、ごめんね」
「…構わん」

包み込まれるような優しいその声に、また涙が出そうになる。は暫く黙って彼の首筋に額を押し付けていたが、やがてにやっとまた悪戯っぽく笑うと、言った。

「…小林」
「…なんだ」
「…愛してるぜ」
「いらん」

予想通りのリアクションに思わず吹き出すと、はその腕の中をそっとすり抜けて、自分を抱き締めていた彼の、その顔を見上げる。すると、小林は真っ赤になった顔を気取られないようにぶすっとした顔をして、から視線を逸らしていた。なんだかますますおかしくなって、はまた、笑った。そして、言った。

「小林」
「ああ」
「汗臭かったよ」

の言葉に小林はかっと耳まで真っ赤になると「き、貴様…!」とベンチから勢い良く立ち上がった。はまたけらけらと笑って「うそうそ!小林クンの肌はサラサラスベスベで、ベビーパウダーの匂いがしやした!」とおどけてみせる。それで小林はますます真っ赤になって握りしめた拳をふるふると震わせると、「…!」と唸った。はおかしそうにくくっと笑うと、小林の肩をぽんぽんと叩いて言った。

「いいのいいの!だって私達、互いの汗の匂いすら愛しいセブンティーンじゃない」
「〜〜〜〜〜〜…!」

小林は今までに見た事もないような表情でを睨んで、何事か怒鳴ろうとしたが…すぐに、脱力した。

「…もう、いい。少なくとも、お前の感性は俺には理解できん」

はその言葉に「まあ小林にはわからないかもね!」とちょっと悪戯っぽく笑った。それで小林はまたちょっとむっとした様だったが…やがて、につられるように、ちょっと吹き出した。なにはともあれ、彼がこんな風に笑ったのなら、めでたしめでたしだ。
 

 

/20040630

 

 

 

 (29巻・St241『Real Trust』を受けて)