雨が降り始めたのは、上南高校まであと数百メートルというところだった。
 
 
 
 
 
生温い雨の下で

 
 
 
 
 
生温い雨の中を、二人は項垂れて歩いていた。傘を持たない二人は、頭から革靴の爪先までびっしょりと濡れている。足取りは重い。常緑樹の緑を雨粒がつうと伝い、小林の頬に落ちた。小林は黙ったまま、歩いていた。もその後ろを黙って歩いていた。大粒の雨がばたばたと地面の泥を溶かしている。
 
今日は都予選の試合があった。対南丸子戦――途中、元々腕を故障していた澤村が退場、成瀬が相手のファウルにより負傷、その結果、小林の健闘も虚しく86対67の惨敗を喫した。あまりにも不本意なこの結果に、皆が泣いた。しかし、小林は泣かなかった。その代わり、両手の拳を膝の上できつく握りしめたまま、じっと歯を食いしばっていた。も泣かなかった。ただ、小林の横顔を遠くから見つめていた。(ああ、悔しいのは彼も一緒だ。でも彼は泣けないし、泣かない。むしろ本当は、彼が一番辛いんじゃないか)きつく握られたその拳はきっと、怒りとか悔しさとか、そんな大きな強い感情にぶるぶると震えていた。私はそんな彼の姿に、上手く呼吸ができなかった。

会場を出て解散をしたあと、私と小林はいつものように、上南高校に向かって移動を開始した。歩いて、電車に乗って、降りて、駅からいつもの緑道を通って、高校に向かう。ずっと黙っていたけど、「いやな雲だね」「降るだろうな」なんて、時々どうでもいいようなやり取りをした。お互いに何となく、顔が見れなかった。時々息が詰まるような、胃がぎゅっと苦しくなるような、そんな感覚がした。

最初は並んで歩いていたはずなのに、私はいつの間にか彼の背中を見つめて歩いていた。雨に濡れたシャツの背中、うっすらとした肌色と肩甲骨が浮いている。大きなスポーツバッグを持って歩く背中は、いつもと同じように広くて、逞しくて―――それが、なんだかすごく、悲しかった。

雨が降ってきたのを良いことに、わたしは泣いた。今なら雨粒が頬を濡らすから、わたしは泣いた。

(どんなに痛い敗北を味わったって明日からまた前向きに頑張らなきゃなんて、あまりにも酷だわ)

考えたら、また涙が出た。明日皆はきっとまたいつものきらきらした目で体育館にやってくるんだろう。

 

 

校庭に入って10mほど歩いたところで、小林は立ち止まり、ゆっくりと私を振り返った。その金色の髪やすっと顎からは、ぽたり、ぽたり、と水滴が落ちている。彼の頬も雨に濡れているけれども、きっとそれは本当に、雨だろう。私は歩いて、彼の目の前で立ち止まる。そして、そっと彼を見上げた。常緑樹から落ちた滴が、頬で弾けた。

「…雨、大丈夫か」
「…駄目すぎて、逆に大丈夫」

えへ、と笑ってみせると、小林もちょっとだけ笑った。雨粒が地面を叩く音が絶え間なく響いている。彼の髪、顎、彼の肩から半袖、さらさらした綺麗な肌、全てが雨粒に濡れていた。小林はしばらく穏やかな顔でを見つめていたが、やがてそっと手を伸ばすと、頬にかかる濡れたその髪を大きなてのひらでそっと撫でるように払った。は驚いたように、目を丸くして彼を見た。彼は掠れた小さな声で、呟くように言った。

「…ありがとう」

はちょっと驚いたように目を見開いた。小林は少し、視線を落とした。濡れた前髪が邪魔をして、その表情ははっきりとは伺えない。彼はしばらく黙って俯いていたが、やがて、再び、先程よりも強い声ではっきりと言った。

「…ありがとう、

はただ、黙って彼を見つめていた。その礼の意味はわからなかったが…確かにわからなかったけれども、突然胸に、寂しいような悲しいような、悔しいような嬉しいような今までに感じたことのないような大きな感情が込み上げてきた。私が溢れる涙をこらえきれずにちょっとしゃくりあげた瞬間、小林はすぐに私を自分の胸にぐっと力強く抱き寄せてくれた。その彼らしくない繊細な心遣いがなんだか切なくて、切なくて、切なくて、わたしの心は震えた。小林が項垂れて、その鼻の先が少しだけ頭に触れた。雨の音で全てが掻き消されるのをいいことに、わたしは嗚咽を漏らして泣いた。

(お前が泣いてくれるから、俺は泣かんで済む)

雨粒のざあざあという音の中に、そんな彼の声を聞いたような気がした。それが錯覚だったとしても、私はますます悲しくなって、切なくなって、彼の濡れたシャツの胸に顔を埋めて、声をあげて泣いた。小林はもう何も言わなかった。私は涙が枯れるまで、彼の胸でわんわんと泣き続けた。

 

 

/20040703