(( それは1月、学校の帰りに )) の声は弾む。小林は膝で両手を組んだまま、「ああ」と短く返した。夕方5時前の電車は割と空いていて、窓の外に立ち並ぶビルの古くなったコンクリートにはぼんやりとした夕暮れの橙が落ちている。地下へと続くトンネルに入ると、窓にはコートを着た自分とマフラーに顎をちょっと埋めたが少し白っぽく映し出された。はしばらくなにやら嬉しそうにじっとその革靴の爪先に視線を落としていたが、やがてふっと顔を上げて自分の方を見ると、にこ、と笑った。言った。 「去年はなんか忙しかったもんね。配達から帰ってきた小林に急いでプレゼントだけ渡して、じゃあまたーって」 去年の誕生日、わざわざ時間を割いて会いに来てくれた彼女に対し、配達の手伝いが忙しくてそっけない対応しかできなかった自分自身について小林は本当にずっと申し訳なく思っていたのだが、が本当に全く気にしてない様子でにこにこと笑うので、とりあえずそれ以上は何も言わない事にした(しかし、女というのはイベントを大切にする生き物だと斉藤先輩達から聞いた事があるが、実際はこんなものなんだろうか)ようやくあたたまってきた乾いた指先でコートの襟越しに首筋を撫でながら、小林はぼそぼそとした声で言った。 「…今年はどうする」 改めて聞かれると特にぱっと思い付く場所もない。小林はしばらく黙ったまま足元に視線を落としていたが、やがてちょっと眉根を寄せて顔をあげると、隣で目をきらきらと輝かせているに「…お前はあるのか」とちょっと掠れた声で尋ねる。は少し眉を持ち上げて「そうだなあ…」と呟くと、考え込むように視線を彷徨わせたあと、少し笑って言った。 「そりゃ色々あるけど、たまには小林の好きなとこにも行ってみたいじゃん」 ため息を吐いて、また考え込む。はその横顔をじっと見つめたまま、次の言葉を待った。 「……わかった、考えておく」 小林の言葉に「そっか」とちょっと肩を落としたあと、は突然にやっと悪戯っぽく笑って、小林の耳元にわざとらしくちょっと潜めた声で囁いた。「私の部屋とか、来てみる?」途端、「何を…」と勢いよく振り返った彼のその顔が耳まで真っ赤に染まっているのを見て、はまたおかしそうに笑うと、「今ちょっとやらしいこと考えた?」とそのちょっと潤んだ目を覗き込んでからかうように尋ねる。小林は真っ赤な顔をちょっとぐぐ、と強ばらせたあと、「…くだらん!」と乱暴に吐き捨てると、そのままぷいと目を逸らした。はまた、笑った。
(( それは7月、期末試験の帰りに )) 小林は膝の上で握りしめた拳をわなわなと震わせていた。午後1時過ぎの電車は空いていて、電車のあちこちにはこれからデートにでも行くのだろう、楽し気に肩を寄せているカップルがちらほらと見える。降ろされたベージュのカーテンの隙間から、眩しい初夏の日差しが座席に差し込んでいる。空はすっきりと晴れて、時折爽やかな風が緑を揺らしている。しかし小林の心はそんな空模様とは裏腹に、ぐるぐると不穏な渦を巻いていた。 確かに自分の向かいに座っているのも電車のあちこちに見られるように、まあ、カップルだ。いくら色恋事に慣れていないと言えども、向かいにカップルが座ったくらいでそわそわと落ち着かなくなるほど小林もウブではない。しかし、このカップルは確実に、ごく普通のそれとは違った。小林が今までに見たこともないような、それであった。 不意に、小林の表情にぴくりと緊張が走った。握った拳を汗が一筋、伝った。 (……!!) 向かいに座っているカップル―――ぱっと見た感じ、どこにでもいるような、むしろちょっと地味なくらいな、当たり前の…しかしそれはごく普通に大人しく座っていてくれたらの話で…とにかく、こいつらは。 小林の隣で同じようにそのカップルを見つめていたはしばらく呆気に取られたような表情で言葉を失っていたが、やがてふっと思い出したように隣の小林を振り返ると、驚いたように目を丸くして固まった。 (こ、小林…) 筋の浮いた小林の手が、制服の膝の上でぶるぶると震えている。その口元は「へ」の時に引き結ばれて、見れば眉間の皺もいつもの五割増しだし、何より妙に姿勢がいい。いくら幼い頃から剣道をやっていたからって、今この状況で、この美しすぎる姿勢は明らかに不自然である。はしばらく呆気に取られたような表情で小林の横顔を見つめていたが、そのうち彼のその不自然さがだんだんおかしくなってきて、思わずちょっと吹き出した。バスケをしている時の大胆な小林からは想像もつかない、このがちがちに緊張してだらだらと嫌な汗をかいてかたまっている彼の姿。ああ、他の上南バスケ部員にも見せてやりたい(きっと澤村辺りは、ゲラゲラ笑い転げて喜ぶだろう)。 あまりにもお熱いそのカップルの様子に、車内の他の客もちらちらとこちらを伺い始めている。彼らは明らかにこの車内で…いや、この電車に限らず、きっとどんな場所にいても、浮き過ぎているのだ(恐らくきっと彼らはお互いさえあれば世間体だとかそんなことはどうでもいいんだろうけれども)。そしてついでに言うと、私の隣の彼もなかなかおかしなことになっているが、まあ恐らく、こっちには誰も気付かないだろう。 不意に、電車ががたんと揺れた。大した揺れではなかったが、向かいの席の女はちょっと大袈裟に「きゃっ」と声をあげると、男の胸に倒れこんで、ちょっと切な気な視線で男の目を覗き込む。男は女の体を抱きとめて、突然ふっとちょっと優しく目を細めると、そっと目を閉じてその顔を女に近付けた。はしばらく顔を引き攣らせてそれを見つめていたが、次の瞬間、ひっとますます顔を引き攣らせた。 (やばい、こいつら…―――やる!) しかし、その瞬間。 「…!?」 ずっと隣でがちがちに固まっていた小林が、突然物凄いスピードでの手をぐっと握りしめた。かと思うと、の体を座席から引っ張りあげるように、そのまま勢い良く立ち上がる。カップルに集まっていた車内の視線が、にわかに自分達に向けられたのがわかった。プシュウという音が響いて、電車のドアが開く。その瞬間、小林はの手を握ったまま勢いよくドアに向かって走り出した。 「こ、小林!」 降りたこともない小さな駅の、コンクリートに黒い雨の跡が目立つようなちょっと古いホームに降りて、そのまま全力疾走で人気のないホームを駆け抜ける。小林に引っ張られるままによたよたと走っていると、またプシュウという音がして、電車のドアが閉まるのが聞こえた。すぐに電車が駅を発車してぶわっと僅かなぬるい風が立ち、スカートがちょっとめくれそうになっては慌てて押さえたが時は既に遅かった(けど、まあいいか、どうせ誰も見てないだろうし、知らない駅だし、紺パンもはいてる…あ、今日は家に置いてきたんだった!)(ショック)。ホームの端まで駆け抜けたところで小林に手を解放されると、は学生カバンをホームの床に降ろして、思わず肩でぜえぜえと息を切った。爽やかな天気と言ってもさすがに7月、走ればそれなりに汗をかく。まあもっとも、今ここにいる彼の汗は、ただ全力疾走したせいというわけだけではなさそうだけれども。 「も、もう…びっくりしたぁ」 肩を上下させながら、小林は吐息まじりに言う。見上げた彼の背中には澄みきった綺麗な青い空と真っ白な雲が広がっていて、なんだかすごく、眩しかった。ふわりと風が吹いて、彼のシャツの襟がぱたぱたと揺れ、木々の緑がざわざわと音をたてる。「ああ、夏だなあ」、は目をちょっと細めて思った。 「その…すまん、どうにも…あの…」 言いながら彼は色々と思い出してきたようで、どんどんその頬は赤く染まっていく。はしばらくそんな彼の様子を息を切らせながら見つめていたが、やがて「はは」とちょっと笑って、言った。 「いいよ、次の乗ろう」 こんな風に照れて口籠る彼をもうちょっと見ていたいようないじわるな気持ちもあったけれど、あまりにも彼が困った顔をするので、今回は見逃してあげることにした。小林はぼりぼりと頭を掻くと、ますます照れくさそうな顔で俯く。また爽やかな風が吹いて、木々の緑が音を立てた。
(( それは7月、部活を終えた帰りに )) 小林がこんな風に安心しきった表情で眠っているを見るのは初めてだった。は疲れていても小林の前で居眠りすることは滅多にないし、仮に眠ったとしても一瞬で、すぐにはっと目を覚ましては「あ、わたし寝てた?寝てた??よだれ垂れてた?」などと隣の小林に何度も問いかけてきて、気がつくといつの間にか、いつもの会話が始まっている。 小林は驚いたような表情のまま、初めて見るの寝顔にしばらくじっと見入っていた。 (……こうしていると、女らしく見えるから不思議なものだな) 不意に、肩にふわりという感覚のあと、確かな重みが来て、小林は目を丸くした。が安らかな寝顔で自分の肩にもたれかかってきたのだ。シャンプーか何か女性特有の良い匂いがして、小林はその慣れない良い香りに思わず体を強ばらせて、唇をぎっと引き結んだ。呼吸をするたびにほのかな甘い香りが鼻をくすぐり、頭の奥がふわっと気持ちよくなる。小林は頬をわずかに紅潮させたが、すぐに慌ててその感覚を振払うようにぎゅっと目を瞑ると、一つ大きく深呼吸した。また柔らかな女性の香りがしたが、何とか今度は上手くやり過ごすことができた。 と個人的に会うようになってからもう1年以上が経過しているが、キスやそれ以上のことはもちろん、抱き合ったこともなければまともに手を繋いだ事すらない(まあ確かに会ってはいるもの付き合おうとかそういう話があった訳でもないし、特に何か「好きだ」とかそんな告白があったわけでもない、仕方のないことと言えばまあ、その通りなのだが)(しかし今更そういう話をする度胸もない、俺には)。だからこんな風に少しでも近くに彼女の体温を感じる時は、すごく…緊張する。すごく…嬉しい、けれども。 (……起こすのも、気が引ける…) 小林はしばらく頬を紅潮させたままじっとかたまっていたが、やがて、がもたれやすいようにそっと肩の位置をずらしてやった。耳元で聞こえた彼女の「ん」という小さな吐息が妙にいろっぽくて、小林は耳まで真っ赤になって体を硬直させる。またシャンプーのような良い香りがふわりと届いた。 ちょっと顔を上げると、電車の窓に、自分とその肩にもたれるが映っていて、小林の頬はまた少し紅潮した。慌てて一瞬体を起こしかけ…しかし隣のを起こすわけにもいかず、断念した。(これでは本当の恋人同士ではないか!)(いや、それでいいのか?)(どうしたいんだ、俺は…)(いかん、混乱してきた)。 (…………) しばらく小林は一人百面相をしていたがやがてちょっと照れたように視線を上へ向けて一つ咳払いすると、自分もそっと目を閉じた。真っ暗な世界に、低く響くがたんごとん、という音、誰かの喋り声や車内放送、そして柔らかな肩の感触やあたたかな肌、シャンプーの匂い、小さな寝息―――確かにここにある彼女を感じると、すごく、体が熱くなった。目を閉じてはいるけれども、いくらそうしていたって決して眠れるような気分ではない。電車はいつものあの駅まで、二人を乗せて運んで行く。慣れ親しんだ小さな揺れのリズムが、彼女とこうしていると今日は少し違って感じるのだ。
オン・ザ・トレイン/20040711 |