「イェイ」 古いアパート、階段をのぼって突き当たりの部屋、あの頃と変わらない達筆で『小林』と書かれた表札。金曜日、夜10時、廊下に張られたトタン屋根の下、玄関の前。わずかに開いたドアの隙間からわたしを見た小林は一瞬あからさまに顔を歪ませたが、やがて堪忍したようにため息を吐くと、ドアをぐっと押し開いて「入れ」と低い声で唸るように言った。わたしは「いつもごめんね」と壁に手をついてピンヒールを脱ぎながらえへらと笑う。彼は壁にもたれて腕を組んで「来るなら来ると連絡くらいしろ」とため息と同時に吐いた。 「えへ、驚くかなぁと思って」 わたしはそう言ってけらけらと笑ったが、その恋人が複雑な表情でじっと自分を見つめているのに気付くとさすがにちょっと焦って、背中に隠していた小林酒店の紙袋を大袈裟に「ほら、おみやげ」と掲げて見せた。小林はそれで顰めていた眉をすっと持ち上げて目を丸くすると、唇の端だけでにっと微笑んで「…よくわかってる」と僅かに笑みを含む声で言った。どうやらなんとか彼の御機嫌は直ったらしい、思わずわたしの心も弾んだ。私は部屋の畳に上がると、「飲もうぜ」と小林の胸に軽くにぎった拳の背をこつんとぶつける。それは高校の頃大事な試合の前にわたしと小林が欠かさず交わした秘密の仕草で、小林はわたしのその仕草に僅かに目を丸くしたあと、やっぱりあの頃のようにふっと柔らかく微笑んで穏やかな声で返した。「ああ」。
嗚呼、我が愛しの苦労人
二本のアルミ缶がこつん、と小さく音を立てた。わたしが豪快にごくりごくりと大胆に喉を鳴らしてそれを飲んだので、小林はビールの缶を持ったまま、驚いたようにわたしを見つめていた。「…やけに豪快だな」。彼は唖然としたまま、呟く。わたしは唇を拭って「そうかなぁ」と首を傾げて、また喉を反らせてごくりごくりとそれを飲んだ。小林は「相変わらずよくわからん奴だ」と少し笑うと、自分も缶を傾けてビールをその唇に流し込んだ。わたしは彼のさりげないその仕草をじっと見つめる。例えば大きな手の甲とか、長い指とか、すごく魅力的だと思った(わたしは小林こそ上南一のセクシーガイだと踏んでたけどね、澤村を差し置いて)。 「小林がビール飲むなんて、ちょっと新鮮だね」 わたしも一口、ビールを喉に流し込む。小林は黙って静かに目を伏せている。通った鼻筋、すっきりとした顎のライン、閉じた唇。あの仏頂面さえやめれば、彼は元々スタイルも良いし面立ちも端正だ、きっと女子からの人気も爆発するだろう。でもそんなことになる必要はない、女から見た彼の魅力はわたし一人が理解していればそれで充分だ(そうそう、小林は声をあげて笑うと口が大きくて可愛いんだぜ、知ってるか)(でもわたしも数えられるくらいしか見たことがないし、きっとよっぽどの事でなきゃ彼はあんな風に笑わないのだろう)(ああ、そんなすてきな状況に居合わせる事ができたわたしの幸運を神に感謝します)。 「…何を見ている」 小林がそれで思いきり顔を歪めて「お前、阿呆か」とあくまでも真面目な口調で言ったので、わたしはなんだかそれが逆におかしくてちょっと吹き出してしまった。わたしは「多分阿呆です」と笑って、ビールを一口、ごくりと飲む。小林はしばらく複雑な表情でわたしを見つめていたが、やがて大きくため息をつくと、自分もビールを一口飲んだ。喉仏がごくりと上下するのがなんだか妙に艶っぽくて、わたしはまた小林に見とれた。――もう酔ったのか。小林にね。 ふと思い出して、わたしは我先にとスーパーのレジ袋を胸に抱えたままばっと立ち上がると、そのままくるりと小林に背を向けてばたばたと台所に走った。それで小林はちょっと呆れたような顔をして軽く額を押さえてため息を吐くと、ビールを片手に持ったまま立ち上がって、自分も台所に向かう。彼もなんだかんだ言ってわたしの世話をやかずにいられないタチなのだから、なんだか可愛らしいものだと思う。 「ねえ、これ使っていいよね」 わたしは少し背伸びをして上の方にある棚からアルミ製のボウルを取ると、そこに水を張り、パックに入った枝豆を開けた。透明な水の上にぱあっと緑色が広がって、なんとも涼し気だ。小林はすっと手を伸ばして塩の入った容器を取ってそれをわたしの手元に置くと、「これで揉む」わたしの手元を覗き込んで言う。わたしはへえと目を丸くして、にこっと笑って小林を見上げた。「詳しいんだね、主婦みたい」。小林は『主婦』という言葉に一瞬ぴくりと眉根を寄せたがすぐに「常識だ」と返すと、「さっさと手を動かせ」と続けた。わたしは「はいはい」と笑うと、小林に教えられた通り、塩を加えて枝豆を揉んだ。 「…これさー、手にあかぎれとかささくれとかあったら絶対痛いよね」 小林はフウとため息を吐くと、鍋を取り出してそこに水をたっぷりと注ぎ、コンロに載せてカチリと火を着けた。その手付きがこれまた慣れていたので、わたしはちょっと驚いたように唇をすぼめた。「さすがだねー」。小林はぐっと缶を傾けてビールを喉に流し込んでから、淡々とした調子で言った。 「沸騰したら入れる。塩も少々。この量なら6,7分だな」 鍋に視線を落とす彼のその横顔をちょっと目を丸くして見つめて、わたしは「へぇ、可愛いね」と呟く。小林は暫く黙ったまま俯いていたが、やがて缶に残っていた残りのビールを喉に流し込むと、「…お前も早く覚えろ」と早口で言って、空になった缶を流しの隅に置いた。わたしはしばらくその照れ隠しの様なしかめっ面の横顔を見つめていたが、ふいに悪戯っぽく目を細めると、少しだけ小林の方にすり寄って、言った。 「じゃあさー、上手に枝豆できるようになったら、小林のお嫁さんにしてくれる?」 小林は僅かに眉を持上げて、真顔でわたしを見た。わたしも真直ぐに小林の瞳を覗き込んだ。彼の瞳の奥に、吸い込まれそうに甘い光を見る。彼もしばらく黙って私の瞳を見つめ返していたが、やがて静かにその唇を開いた。 「…枝豆くらい茹でられて当然だろう」 その言葉に一瞬顔を歪めたあと、小林はわたしの目を真直ぐに見たまま言った。「お前、酔っているだろう」。彼の唇が動く。わたしはしばらくじっとその魅力的な唇を見つめていたが、不意にたまらなくそれが欲しくなってすっと目を閉じると、「ん」とわざとらしくすぼめた唇を小林に突き出してみせた。一瞬の間のあと、その仕草の意味するところを察知した小林はぎょっとした様にまた一瞬顔を歪めたが、すぐにちょっと呆れたような表情で小さくため息を吐くと、そっと背を屈めてわたしの唇にふわりと自分のそれを寄せ、ちゅっと音を立てて軽く吸った。それは一見不器用そうな小林からは想像できないような、優しくて暖かなキスだった。小林のその生温くて柔らかい感触が気持ちよくて、わたしは思わず笑い声と鼻息を漏らす。小林は鼻先が触れ合うくらいのごく至近距離で顔を寄せたまま目を開けると、僅かに眉根を寄せて「気色悪いぞ」と低い声で唸った。 「へへ、だって小林の唇ってやぁらかいんだもん」 えへらと思いきりにやけたわたしを渋い表情で見つめたまま、小林は「…もう、知らん」とため息と同時に吐き出した。と、彼は鍋の中身が沸騰していることに気付くと、「ほら、もたもたするな」とわたしの頭を大きな手の平でぽんと叩いた。わたしは「はぁい」と我ながらへらへらした声で返事をすると、ボウルの水を切った。 「今度こそ、乾杯!」 わたしは缶を掲げると、すっかり気の抜けたぬるいビールを喉に流し込む。小林もビールの缶を開けると、それを一口飲んだ。古い扇風機が低いうなり声を上げて首を動かし、彼の前髪を揺らしている。ああ、夏だなぁなんて思いながら、わたしは目の前の皿に置かれた枝豆を取って、食べた。そして、思わず叫んだ。 「お…美味し!」 小林も手を伸ばして枝豆を取ると、それを口に運んだ。その様子をわたしが期待の眼差しでわくわくと見つめていることに気付くと、彼は居心地悪そうに眉を顰めて、皮を小皿に置いた。そして、疲れきった表情でわたしを見て、言った。 「…そんなに見つめるな」 小林はもはや呆れた顔でわたしを見るだけだった。そして無言で手を伸ばして、また枝豆を口に運ぶ。わたしはただすごくうきうきして、その様子をじっと見つめていた。こうしているとなんだか新婚みたいで、すごく幸せだなあ。いつか毎日がこうなれればいいのになあ。 とろんとした目でそう言ったは、缶に残っていたビールを思いきり飲み干すと、空になった缶を卓袱台の上に置いた。彼女の手元には、空になった缶が四本。俺も同じ量かそれ以上を飲んでいるが、全く酔いが来ない。親父も兄貴もざるだし、俺は遺伝的にもそういう体質なのだろうと思う。 「…もう随分飲んでいる、これで最後にした方がいいんじゃないか」 彼女は俺の言葉など耳に入っていない様子でこくりと一口日本酒を飲むと、目をぱっと丸くして嬉しそうに声を上げた。「美味しい!」。俺はいささか呆れたような気分で彼女を見つめていたが、やがてそっと卓袱台に顎杖を付くと「そうか」と大きくため息を吐いた。彼女は頬を紅潮させてにこにこと笑って、本当に幸せそうだ。彼女のこんな風に他人に無防備な自分をさらけだすことができる部分は、俺にとって少し羨ましいところでもある。呆れる気持ち半分、認める気持ち半分で俺は少しだけ微笑んだ。と、不意には「よっこいしょ」と立ち上がると、おぼつかない足取りで卓袱台を回って、俺の前までやってきた。そして突然のその行動に訝し気に眉を顰めて彼女を見上げた俺に「えへ」と笑ってみせると、俺の胡座を掻いた膝の上に向かい合う形で「よいしょ」と跨がった。俺は途端に体がかあっと熱くなるのを感じて、思わず上擦った声で言った。 「お…お前、何を」 彼女はへらへらと笑って、グラスの日本酒を一口飲んだ。俺は「よさんか」と彼女の体をどけようとしたが、俺が抵抗するほど彼女は「やだ」と俺の胸にくっついて離れない。俺はしばらく抵抗を続けたがやがてそれが全くの逆効果であることに気付くと、「…勝手にしろ」と大きくため息を吐いて目を閉じた。はしばらくじっと俺の胸にしがみついていたが、やがて俺のシャツに鼻先を擦り寄せるようにして幸せそうに目を細めて、言った。 「小林、石鹸のにおいがする」 はそれでまた「そっかー」と微笑むと、ゆっくりと体を起こして俺と正面から向き合った。そして、グラスにわずかに残った酒を一気に喉に流しこみ、そっとグラスを卓袱台に置く。俺は静かにの顔を見上げた。は柔らかく微笑んで、熱くなった両手のひらで俺の頬をそっと撫でる。ふわりと笑んだその唇には薄く酒が滲んで艶っぽく、俺の本能が静かにどくりと音を立てるのがわかった。彼女は俺の目をじっと見つめたあと、そっとその瞳を閉じてそっと俺の唇に柔らかな女性のそれを重ねた。 「すみ…」 彼女の唇から俺のファーストネームを呼ぶのが聞こえて、俺はそっと舌を解放して彼女の瞳を覗く。彼女は熱に浮かされたような顔で吐息混じりに「純直」と呟くと、そろそろと腕を回して俺の背中を抱き締めた。俺はその頭をぽんぽんと撫でて、軽く自分の胸に抱き寄せてやる。しばらくそうして黙って抱き合っていると、不意に胸の中からくぐもった声が漏れた。 「なんかさー」 また訳のわからない意地っ張りが始まった。俺は「…寝るなら布団で寝ろ」と言うと、の体を引き剥がして立ち上がろうとする。しかしは「やだ、絶対やだ」と首を振ると、ますます強く俺の体を抱き締めた。俺は「こら」と必死で俺にしがみつくその肩を叩いたが、彼女は聞こえないフリでひたすらぎゅうと俺の胸に顔を埋めている。俺は一瞬ため息を吐いて諦めかけたが、これではいかんと心を鬼にすると、「布団で寝ろ」と彼女を強引に引き剥がして立ち上がった。彼女はそのままごろんと畳の上に転がって、けらけらと笑っている。俺は押し入れのふすまを開けて布団を畳に降ろすと、自分が使っているシーツを剥がして新しいシーツをかけた。そして薄い掛け布団と枕を用意すると、「」と彼女を振り返る。と、相変わらず彼女はけらけら笑いながら畳の上を転がっていた。 「おい、みっともないぞ」 そんなことをされては色んな意味で適わん。 「わー高い!ていうか小林ちょっと変態みたい」 俺は彼女を布団に降ろすと、卓袱台から一本ビールを取って、ベランダに出た。この古いアパートから見える景色は狭く限られたものだが、それはそれで別に悪いものじゃない。薄い紺色の空に、時折灰色の雲がかかって見える。煙草でもあれば一服したいところだったが、俺は生憎煙草は吸わない。とりあえずビールの蓋を開けると、ごくりと一口喉に流し込んだ。口の中に残る彼女の舌の熱もろとも、胃の奥に沈んだ。 10分程経って、俺は「そろそろか」と部屋の中を覗き込む。するとが服を着替えかけた体勢のまま倒れて寝ていて、俺は思わず今晩何度目になるかわからないため息を吐いた。サンダルを脱いで部屋にあがり、俺は彼女の腕に引っ掛かったブラウスを脱がせて、シャツを着せてやる。なんで俺がここまでという気もするが、俺は彼女を着替えさせるとその体布団に横たえて、布団をかけてやった(ここまで来ると、俺はもうこいつの恋人というよりも保護者なのではないだろうか)。「ん」声を漏らして、は寝返りを打つ。子供のような穏やかな寝顔だった。思わずそれを穏やかな顔で見つめている自分に気付いて、俺は誰が見るわけでもないが頭をぼりぼりと掻いて彼女から視線を反らした。 僅かに開いた窓の隙間から夏の涼しい風が吹き込んで、小林の髪を柔らかく揺らした。 |