重たい瞼を持ち上げると、やけに白い保健室の景色の中に和雄の姿を見た。和雄はわたしのベッドの脇に立って、じっと静かに私を見下ろしている。視線を合わせたまま数回まばたきをしたあと、わたしはすこし笑った。和雄はただ、ポケットに両手を突っ込んだまま一人黙って立っている。その顎がいつものけだる気な上下運動を休んでいるところを見ると、どうやら今日は珍しくガムを噛んでいないらしい。わたしは生理痛で重い体を動かしてスカートのポケットからガムを取り出すと、それを和雄の前にすっと差し出した。和雄は真顔でじっとガムと見つめあったあと、そっとポケットから手を出してわたしのガムを受け取ると、その包装を指先でぴりぴりと破いた。

「…いま、何時間目?」
「…3?」
「わかんないの?」
「…知らない」

「また寝てたんでしょ」ちょっと諌めるように言うと、和雄はガムに視線を落としたまま軽く首を傾げて、ごく当たり前の様にすっとぼけて見せた。呆れたように眉根を寄せるわたしをよそに彼は取り出したガムの一粒を整った形の唇に挟むと、残りをわたしの元に差し出す。わたしはもぞもぞと動いて手を差し出すと、受け取った残りをスカートのポケットに戻した。すっと無駄のない和雄の顎の輪郭が、ゆっくりと動き始める。甘いラ・フランスの香りがふわりと漂った。

「教室、戻らないの?」
「…戻っても、何も無い」
「出席になるよ」
「…別に」

和雄は保健室の機具にちらちらと視線を彷徨わせながら適当な返事をしたかと思うと、不意に何か思い出したように眉を持ち上げて、ポケットから何かを掴んで取り出し、そしてそれをわたしの手のひらにそっと握らせた。「え、なに?」「…あったから」「くれるの?」わたしの言葉に、和雄はただ頷いて見せる。それでわたしが恐る恐る指を広げると、そこには一輪のくたびれた小さなオレンジ色の花があった。わたしは思わず、いつもより1オクターブ高い声で言った。

「わ、花だ!すごいね、ちょっとしおれてるけど…」
「…元々」
「はは。これってそこの水道の脇の花瓶のでしょ?」

和雄は小さく頷く。教室から保健室に向かう途中の水道に、この小さな花は小さな細い花瓶の中に随分と長いこといけられていた。あの小さな花の存在を知っているのはクラスでもわたしだけだと思っていたけれども、もしかしたら和雄も知っていたのかもしれない。甘いラ・フランスの香りがまた、彼のふわふわの金髪と一緒に揺れた。

わたしはそっと花を持ち上げて、天井の蛍光灯の光にその花びらを透かしてみる。くたびれたその花びらは、光を受けてもちっとも透き通らなかった。和雄はしばらくポケットに手を突っ込んだままけだる気にガムを噛んでいたが、不意にポケットからすっと手を出すと、花を光に透かせるわたしの手首を掴んで、そっとベッドの枕元に押し付ける。一瞬力の抜けた指先からするりと落ちた小さなオレンジ色の花は、よくワックスのかかったエメラルドグリーンの床に音も立てずにふわりと着いた。驚いたように和雄を見上げたわたしの唇に、そっと身を屈めた和雄の唇がそっと触れる。一瞬の間のあと、甘いラ・フランスの味がしっとりと唇に伝わった。不意にゴウンと音を立てて、暖房が動き始める。甘いラ・フランスの味の中に、和雄の唇の味がした。

 
 
 
 
 

甘いラ・フランスの味/20041201