(やられた…!)

(今日は追い掛けられずに済むと思ったのに…!)職員室での二者面談を終えて教室に戻ったわたしの目に飛び込んだのは、わたしの椅子に座って、わたしの制服のブレザーに鼻先をおしつけて、わたしの机に突っ伏している桐山の姿だった。手にしていた荷物を思わず床に落としたわたしはしばらく絶望的な気持ちでドアの前に立ちすくんでいたが、やがて小さく咳払いして気持ちを落ち着けると、ゆっくり遠回りして机の前に立ち、おそるおそる桐山の顔を覗き込んだ。桐山はどうやら眠っているらしい、少し痛んだ金色のフラッパーパーマの向こうに伏せた長い睫毛が見える。その寝顔は言うなれば天使のように美しく愛らしいけれども、わたしはこの男の本性が鬼、もしくは悪魔であることを知っている。(…騙されてたまるか)わたしはその天使のような寝顔をしらけた表情でじっと見つめていたが、やがて覚悟を決めると、桐山の腕の中にあるブレザーを思いきってぎゅっと掴んで、そのまま力を込めて自分の方に引き寄せた。しかしブレザーを抱き締める桐山の腕の力は思った以上に強く、これ以上力を入れて引っ張ればわたしのブレザーはビリっといってしまいそうだ。わたしはブレザーの端を掴んだまま、一人呑気に眠る桐山をじっと睨んでいたが、結局諦めて溜息をつくと(…もういいや)と立ち上がって、落としたままになっていた鞄を拾い上げ、そっと廊下へ出た。

(別に今日一日くらい、ブレザーなくても不自由しないし…)

天井の蛍光灯の明かりを跳ね返して光る廊下に視線を落として小さく溜息をついた瞬間、今離れたばかりの教室からガタッと椅子の倒れる壮絶な音が聞こえて、わたしは思わず肩を小さく跳ね上げる。なんとなく嫌な予感がしておそるおそる背後を振り返ると、そこにはちょうど教室から出て来たところらしい桐山が、じっとこっちを見つめて立っていた。(や、やばい…!)思わず顔を強ばらせて後ずさるわたしをよそに、桐山はわたしの顔をしばらくじっと見つめていたが、やがてにやりとその唇の端を持ち上げると、そのまま一歩踏み出して、わたしの元へやって来る。わたしは歩み寄る桐山を見つめたまま硬直していたが、その腕の中にあるわたしのブレザーにハッと我に帰ると、「い、いいから!ブレザー、いいから!明日で!」と上擦った声で叫んで、そのままくるりと彼に背を向け、一目散に駆け出した。桐山はわたしの行動に驚いたように少し眉を持ち上げて目をぱちぱちと瞬かせていたが、不意にその目をすっと細めて笑うと、自分もわたしの後を追って猛スピードで駆け出す。(コイツ、なんでいつもこう、追っかけてくるんだ…!)今にも泣き出したい気持ちでわたしは必死に階段を駆け下りたが、一段抜かしで階段を降りて来る桐山のその足音の聞く限り、遅くとも昇降口に着くまでには追い付かれ、そしてまた家の門までじっと黙ってついてこられるに違いない。(…あーあ、もうどうでもいいや…)覚悟を決めて立ち止まり、そっと後ろを振り返ると、階段の上の方から桐山が最高の笑顔でわたしを見下ろしている。どうやらこいつには適いそうもない。わたしのブレザーを顔の横でひらひらさせながら、桐山がゆっくりと階段を降りて来る。わたしは溜息をついて、肩を落とした。

 
 
 
 
 

笑う/20041114